『 ブロークンウインドウ理論にも当てはまる、低レベルなマスコミ精神 』
周りの人々が馬鹿扱いしている者に対しては、
自分はその人に対して特別に恨み心はないが、
なんだか、ついついと、
その人に対しては、
敬意な態度で接しなくてもいいような気になったり、
周りの人々が、
「○○だから、まっ、いいか!」と軽く扱っている者に対しては、
自分もなんだか、その人に対しては、
挨拶なんかも真面目にしなくてもいいような気になったり、
周りの人々が卑下・批評している者に対しては、
初めて訪れた環境なのに、
その空気に憑依影響されて、
自分もその集団に組み入るためになのか、
恨みもないのに、その者を批評してみたり、etcと、
また、逆に、
自分からみればクソみたいな異常な人であっても、
その環境の人々から人気がある者だと認知すると、
その者に対しては、
「自分も好意をもってるよ♪」というような、
本心を殺したアピールで付き合わなければというような気になったり、
自分は、その人に対して、激しい怒りを感じているのに、
その環境の中では周りに支持されている人だと認知すると、
その激しい怒りを抑圧して、心にもないことをヘラヘラと話すようになったり、
また、
その者に対して、ほどんど怒り心なんて感じてないのに、
その環境の周りの人々は、
その者に対して、激しい怒り心を向けていると認知すると、
周りの空気に同調するかのように、
その者に対するムカつきの部分を探して、
その作った怒りの心を、その環境の人々にアピールしてみたり、
etcと、
そのような、
周りの空気に左右・服従・支配されたような人たちが、
かなりに高い割合で、
老若男女、常識人の顔をして、普通に、
日本国の各地でそれぞれの幸せを求めながら生活をしている。
この、
集団行動意識ともいえるし、
ブロークンウインドウ理論にも当てはまる人間心理が、
幼稚園児の環境から、大人たちの環境、
また、
国の舵を握る政治家たちの環境から、
マスコミたちの環境、etcにまで、
普通に展開しているところが、現・人間世界の恐ろしいところでもある。
集団行動意識に睨まれた対象や、
ブロークンウインドウ理論で説かれているガラスを壊された車のように、
その対象存在でもある、
ヤラれる側の人間心情からみたら、
まるで、
自分は周りの存在に対して、まったく攻撃性を向けていないのに、
傷ついているというだけで、
汚れているというだけで、
劣っているというだけで、
周りと違うというだけで、
昨日まで普通の人間の顔をしていたはずの大勢の悪魔たちに
責め嬲られてしまうという恐怖をあじあわされたり、
人間の住む世界に失意の地獄絵巻を感じ落沈んでしまったりもすることでしょう。
そう、
昨日までは仲良くしていたはずの、普通の人間の顔をした悪魔たちにね。
集団意識が異常集中しなければ、
普通に優しい人間でいてくれるのに、
集団意識が異常に集中するだけで、
簡単に、悪魔に変身してしまう、主体性のない、なさけない人間たち。
結局、その変身の因は、
いろんな人々に愛されたいという依存的欲求心と、
自己保身の気持ちが強すぎる精神性をもっているからなのかもしれません。
このような心が起因となって、
普通の人間の心を悪魔に変身させてしまうのかもしれません。
ということは、
人間の心の中に、
愛されたいという心が依存的欲求としてあるかぎり、
その人間は、環境の変動によって、
いつでも、
悪魔に変身できるという要素を持っているということなのかしれません。
そう、
最近、特に、危機感がつのるのは、
政治家だろうと、裁判官だろうと、警察庁長官だろうと、
潰そうと談合すれば簡単に潰すことのできる、
事実上の、No.1権力集団でもある、マスコミたちにも、
上記のような、
集団行動意識とかブロークンウインドウ理論が、
そのまま当てはまってしまう精神行動構造があるということですかね。
小学・中学・高校のイジメと同じ精神行動構造が、
事実上、No.1権力をもっている、
公的にも認められし正義の存在・マスコミの精神の中にもあるんですよ!
デタラメすぎて、
キチガイすぎて、
恐ろしすぎて、
この先の日本国に末期的な危機を感じてしまう、今日、此の頃です。
ええ、
悲しいと言えばいいのか、
マスコミの報道と、その国の国民性は連動していると思います。
今のマスコミの報道に、
デタラメさや異常さを感じない国民が多いうちは、
老若男女、集団行動意識的なイジメの構造は、
絶対になくならないのだろうと思う。
日本のマスコミは、
世界でもトップを競うほどにレベルが低いです。
ホント、馬鹿キチガイに支配された権力集団ですよね。
なのに、誰も、この権力集団に抗えない。
そして、
日本の国民も、
周りの空気感に、
自分の個性や主体性が、左右・憑依・支配されているかぎり、
その人間性の低さを否定することはできないと、思う。