221215  支配と公私の成立  丸山眞男『日本政治思想史1948 』(講義録第一冊) | 思蓮亭雑録

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すなわち、市民社会が純粋にエゴイスティックな個人の自由な活動の舞台であることが容認されていけばいくほど、国家は何らかの特殊利害の表現ではなくなり、抽象的一般意志の表現として現われる。これが市民社会における「法の支配」の意味である。しかし、ここでわれわれが注意しなければならないのは、このことが近代社会が階級社会であることと矛盾するものではないということである。近代国家の特質は、特殊なものを一般的なものにまで還元し、かかる法一般を媒介として間接的に階級支配 (Klassenherrschaft) を体現する点にあるからである。直接的支配の手段として国家を捉えるならば、それは近代国家の本質を見失うものといわねばならぬ。市民社会の唯物論と国家の観念論とは、まさに同一の過程の両面として完成されるのである。 51

👼 この個別化と一般化の同時進行は封建的分散から近代的集中への進行によって生じるという。
👹 それは一応、公と私の分離ということができよう。つまり、それ自体が私的性格をもつ封建的権力は、分散しているだけにかえってそれだけ、個人の私的領域に微に入り細に入り介入したが、権力が近代的集中の過程でその私的特殊的性格を脱して一般的抽象的なものとなるにつれて私的特殊的領域から撤退してゆく。
👿 私的なものは自立的なもの自由なもの、言い換えれば自己関心的なものエゴイスティックなものとしてその立場が一般的抽象的なものによって承認される。それは逆に言えば一般的抽象的なものがエゴイスティックな特殊意志によって承認されるということだ。
👼 つまり、私的なものと権力との直接性が間接性換言すれば媒介的関係性へと変貌してゆくということかな。
👹 「法の支配」とはこの公と私の媒介的関係性ということだろう。
👿 媒介的ということは生成するということではないだろうか。私は公に媒介されて私として生成し、公は私に媒介されて公として生成する。
👼 そこで重要なことは、近代国家の特質は「法一般を媒介として間接的に階級支配を体現する点にある」という丸山の指摘だと思う。
👹 うん。公に媒介されて特殊的エゴイスティックな私が生成するといっても、それは物質的過程のうちにあるものだろう。つまり、私は労働し、生産し、そして消費するものだ。そのようなものとして私は主体であると同時に階級的に位置づけられるものだ。
👿 階級的に位置づけるというのは言い方を変えれば支配するということだね。自由な私のエゴイズムは階級的に媒介されているだろう。
💩 しばしば指摘されることだが、主体subjectは従属するもの‐支配の対象という意味でもある。封建的従属から主体化への変化は単に自由な市民としての地位を勝ち取ったということではなく、封建的従属が止揚されて市民的従属に転換したということだろう。そしてその従属を表現するのは階級関係ということになるのではないか。と同時に今度はその市民的従属の止揚という課題が現われる。

 

Protesters march during a protest rally following the death of a teenager, in the northern city of Thessaloniki, on Tuesday, December 13, 2022. (Photo by Dimitris Tosidis/AP Photo)

警官に射殺されたのはロマの少年だったようだ。