221126  感覚と運命  森有正『流れのほとりにて』 | 思蓮亭雑録

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この感覚の質の差異というものは、抽象的なものではなく、四囲の自然、伝統とも深い関係のある、一つの内面的空間であるように思われる。それはばらばらに分立する各個人の、更にその内部にある一種の作用的場所ではなく、そういう個人的、アトム的な見方はすでに一つの感覚の質の表われなのであり、本当の内面の感覚の質は、自然も個人もすべてを含む超個人的な現実そのものであり、その作用が発動する場所が個人だ、ということができる。この発動機構を純化することが、内面に向って深化するという意味なのであり、感覚を解放するということなのである。僕は、感覚の純粋状態の一つの意味を、こういうものとして考えたいと思っている。 354f.

👼 先に僕たちは、感覚のおける、というか、感覚から思想=定義への発展における内的秩序の形成対象の秩序の発見と同じだと考えた。
👹 それゆえ森は、感覚の質の差異が自然、伝統と関係がある内面的空間の問題だと云うのだろう。
👿 重要なことは、そのような感覚の質的な差異化こそが内面性の形成すなわち個別化の働きであって、その逆ではない、ということだね。
👼 そこから逆に、自然も個人もすべてを含む超個人的な現実そのものを考えることができる。それは森が運命と呼ぶものではないだろうか。あるいは、実在性の杳い根拠と言えるかもしれない。
👿 とすると、個人は外的なものとしての運命に翻弄されるということではなく、個人の個人性自身が運命の完成とは言えないだろうか。
👹 個人は運命の媒体であり、それを通して運命が自ら自覚してゆく。その自覚の形象化が自然であり、作品であり、作品としての個人の生のありかたということなるだろう。
💩 実在性の根拠としての運命の自覚ということは、個人化つまり個人の規定性、さらい言い換えれば使命の自覚ということであり、つまりそれは、人間が人間になるということだ。それは運命に従うということではなく、個人の自由において運命を完成するということではないだろうか。人間存在の悲劇性とはそういうことだと思う。それは成就=解放ということだと思う。

 

A local resident carries a kitten found in her flat in a residential building destroyed by a Russian missile attack, as Russia's attack on Ukraine continues, in the town of Vyshhorod, near Kyiv, Ukraine, on November 24, 2022. (Photo by Gleb Garanich/Reuters)

僕たちはこの現実を運命として忍従しなければならないということではない。むしろこれは人間の使命から外れたことだ。