221113  自然と人為  モンテーニュ 『エセー』(2 白水社) | 思蓮亭雑録

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さて、わが主題に話を戻すとして、自分の習慣にはないものを、野蛮と呼ぶならば別だけど、わたしの聞いたところでは、新大陸の住民たちには、野蛮で、未開なところはなにもないように思う。どうも本当のところ、われわれは、自分たちが住んでいる国での、考え方や習慣をめぐる実例とか観念以外には、真理や理念の基準を持ちあわせていないらしい。あちらの土地にも、完全な宗教があり、完全な政治があり、あらゆることがらについての、完璧で申し分のない習慣が存在するのだ。彼らは野性であるが、それは、自然がおのずと、その通常の進み具合によって生み出した果実を、われわれが野性と呼ぶのと同じ意味合いで、野性なのである。本当のことをいえば、われわれが人為によって変質させ、ごくあたりまえの秩序から逸脱させてしまったものこそ、むしろ、野蛮と呼んでしかるべきではないか。前者のなかには、本当のものが、もっとも有用で自然な美徳や特性が、生き生きと、力強く存在しているのに、われわれときたら、後者のうちで、それらの質をおとしめて、我々の堕落した好みのほうに合わせてしまったのだ。 64

👼 ここで「野蛮」「野性」と訳し分けられている言葉はsauvageでひとつの言葉だ。
👹 それはそれ自体で観られたときには「野性」であって、そこには美徳や秩序が属しているが、「われわれ」の人為の世界から観ると未開な「野蛮」となるようだ。
👿 人為と対立するのは真理基準としての自然‐本性で、野性というのはそれに即したあり方ということかな。
👹 興味深いのは自然に即した野性には美徳や秩序が属していると指摘されていることだと思う。というのは、美徳と秩序の世界とはありうべき人間的社会のことだからだ。
👿 とすると自然と人為の対立は、自然に即した社会と人為的な社会との対立とも考えられる。これは契約論的発想への批判的視座ということになるかもしれない。
👼 訳者はsauvageの語源のラテン語silvaticusがsilva‐森に由来することに注意を促しているね。森はそれを構成するものが自らの本性に従って運動し、その相互作用で森全体の秩序が形成されるところではないだろうか。
👿 ところが、森は森の外にいるものには恐ろしげな野蛮の世界に見える。そこは自分の欲望を貫徹しようと闘争が繰り広げられる自然状態だ。契約論はそれを人為によって乗り越えようとする。
👹 ヨーロッパが崇高に通じる森の美しさを発見するのはもう少し後の話だ。「野蛮人」の発見はその前史と言えるかもしれない。
💩 その「野蛮人」の発見はモンテーニュに自明とされる自らの「考え方や習慣」の相対化を迫るものだった。それは自然から逸脱した人為だ。彼の生きた時代と世界は闘争のそれだったが、それは不自然な世界かもしれない。自然状態を乗り越える人為は理性の業かもしれないが、そうだとすれば野蛮はむしろ理性のうちに宿る。19世紀になって自然状態=野蛮は新たな意味を獲得する。モンテーニュ的な相対主義と懐疑主義は逆転して弱肉強食の野蛮のイデオロギーを正当化するのだ。



Georgia Baker, 12, enjoys the bright yellow Sunflower field on a farm near Christchurch in Dorset on August 7, 2022. (Photo by Rachel Baker/Bournemouth News)