221030  実践的意識としての自己意識  イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』 | 思蓮亭雑録

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自己意識は本質的に実践的な意識であり、〈他なるもの〉の知をのりこえる意識なのである。実践理性批判において、自己意識すなわち自律が、自然の否定として把握されたように、また知識学において、実践的〈自我〉が、〈自我〉=〈自我〉の最初の同一性(全『知識学』の定立的原理)にもどるための無限の努力としてとらえられたように、『現象学』においても、自己意識は、意識とは逆に、行為的な意識としてあらわれるであろう。 192f.

👼 自己は他なるものにおいて自己自身を観る。すなわち自己意識は意識の真理である。
👹 それはつまり、自己意識は自己自身に対する真理要求だということではないかな。言い換えれば、自己は自己にとって課題だということであって、それゆえにこそ自己意識は実践的意識だということではないだろうか。
👼 たとえば、カントにあっては自己意識は自律であり、フィヒテにあってはそれは自我の同一性に戻る無限の努力となる。
👿 自己は対象意識において他に自己自身を観る。つまり自己意識は知の知だ。一方、自己は自らを他なるものから区別する。すなわち対象を否定するが、それは対象意識を否定することでもある。そしてこれは、知の知としての自己意識が自らを否定して乗り越えてゆくということでもあるね。行為とは対象の否定において自らを止揚してゆくことではないだろうか。
💩 実践的意識としての自己意識において自己は自己自身にとって課題であるけれど、更に言えば、「人間であること」が自己に課せられていると言いたい感じがするね。ただし、それが問題となるのは『現象学』のもっと先に行ったところだろう。対象の否定=対象意識の否定は、単に自己への回帰ではなく、この自己の止揚として共同性の実現ではないだろうか。つまりそれは「間」の存在としての人間の実現となろう。別の言い方をすれば、単なる自然は否定されて第二の自然としての社会が成り立ってゆくのだ。

 

Lamis Kuhail, 12, studies for school in the Sheikh Shaban cemetery where she lives with her family, in Gaza City, September 4, 2022. The children, who earn small amounts bringing water to funeral ceremonies, keep asking their parents when they will be able to move away from the cemetery. “I sometimes get invited by friends from school, but I can't invite them here. I am too shy to do that”, said Lamis. (Photo by Mohammed Salem/Reuters)