220908  哲学の問い  アドルノ『否定弁証法』 | 思蓮亭雑録

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むしろ哲学ににあっては、科学研究のばあいのように、まず問いがあって次に答えがくるという前後関係があるわけではない。哲学はその問いを、自分が経験したものに即して、その経験がうまく取り入れられるように形づくらねばならない。その答えは、与えられもつくられも生み出されもしない。問いが展開されて透明になると、それが答えになる。 79.

Sondern in Philosophie schließt stets fast die authentische Frage in gewisser Weise ihre Antwort ein. Sie kennt nicht, wie die Forschung, ein Erst-danach von Frage und Antwort. Sie muß ihre Frage modeln nach dem, was sie erfahren hat, damit es eingeholt werde. Ihre Antworten sind nicht gegeben, gemacht, erzeugt: in sie schlägt die entfaltete, transparente Frage um.  69.

👼 哲学すなわち問いは驚きをもってはじまる、と言われるね。
👹 驚きはひとつの経験だ。それは経験が認識を凌駕していることの経験なのだ。
👿 したがって、哲学がまずしなければならないことは、自身の経験に追いつくということだ。哲学的な問いは経験に即した認識の批判となる。
👼 経験においつくというのは現象学のプログラムでもあるんじゃないのかな。
👹 ただ、「事象そのものへ」というモットーにはどこか独断的な響きがないだろうか。
👿 アドルノは「理性批判において認識の限界を引いたのは、認識能力への自己反省以外のなにものでもなかったのだが、現象学のプログラムは、さしあたってはその自己反省なしですまそうとしたのである」と云っているね。
👼 これは現象学には些か厳しい評言かもしれない。現象学は志向性と思考されたものとの相関的分析としてひとつの反省の道なのだから。
👿 ただ、その相関的分析を行うものはどこにいるのかってことじゃないかな。相関的分析は全体を余すことなく予示している形相を前提としていて、その意味ではひとつの独断となってしまうという。
👼 それがハイデガーに受け継がれて存在論化されて独断の度合いを高めていくと。
👹 「挫折そのものを実存カテゴリーにまで高める」というわけだね。
👿 実存の真理は死への先駆的覚悟性のうちで告げ知らされると。
👹 しかし、死への先駆的覚悟性という概念自体のうちに事象そのものの非同一性すなわち非真理が現れないだろうか。他の誰でもない自分の死への先駆的覚悟性は究極の個別化の原理であるように見せかけて実は全体化する原理なのではないか。
👼 存在の問いのうちには何か不透明で欺瞞的なものが含まれているのかもしれないね。
👿 ハイデガーはその問いを仕上げようとするわけだけど、その問いの法廷的モデルは権力的‐支配的なものであって、『存在と時間』の挫折はおそらくそのような問いの構制によるものではないだろうか。
👼 その意味では後期の方がむしろ問いを展開し透明にする思惟と言えるのかもしれないね。
💩 自分の死という経験しえないものへの先駆的覚悟性という概念が人間の経験の上空を飛び去ってしまう。哲学的な問いは経験のうちで経験に即して鍛えられる。それは実存こそが真理だという決断主義ではなく、そのような決断をも無効化してしまう事象そのものの弁証法的運動に即して意識が自らの被制約性を見抜いていくということである。問いを触発するのも事象そのものであるとすれば、問いのうちにも弁証法的運動が含まれているのであって、哲学は経験に即して問い自身のうちからこの運動を浮かびあがらせるのだ。

 

A boatman plucks lotus flowers from a lotus plantation in the interiors of Dal Lake in Srinagar, the summer capital of Indian Kashmir, 29 August 2022. (Photo by Farooq Khan//EPA/EFE/Rex Features/Shutterstock)