ドラクロワと近代の視線   | 思蓮亭雑録

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Eugène Delacroix - The Execution of Doge Marino Faliero, between 1825 and 1826


Delacroix - La Mort de Sardanapale (1827)

 

 ロマン主義が本当は一つの様式というより経験のある特質なのだといことはドラクロワの多様な方法からも分かるが、それらの方法は彼が軽蔑した写実主義をも吸収することがある。ボードレールの詩―例えば「腐った死骸」―も同様である。ドラクロワによるローズ嬢の裸体の習作は、彼がゲランのアトリエを出たときには、厳格な正確さを習得していたことを示している。それに比べれば、クールベのずさんあ写実主義は衝動的なものに見えてしまう。≪マリーノ・ファリエーロの処刑≫のある部分はドラローシュによって描かれたといってもよいくらいだ。死刑執行人の正確な姿、白く硬い大理石の階段、前景の首のない死体、しかし、やがて視野がぼやけると、背景のいくつかの形象や、ぼんやりと垂れている旗、前景で影となっている人物たちは、マネの絵、いや、ティントレットの絵とさえ言えそうだ。同じように首尾一貫しないヴィジョンは≪サルダナバールの死にも現われており、その、夥しいものにあふれてはいるが空ろな背景と、裸婦たちの力強くしなやかな肉体という輝かしいイメージは、ボードレールが彼の詩においてなそうとしたこと、つまり、「官能的快楽を認識に変える」ことを、やすやすとなしとげている。―サイファー『ロココからキュビスムへ』152

 有名な『民衆を導く自由の女神』はほとんど扇動的なドラマ性でロマン主義を代表する作品と言われるが、それに対して『マリーノ・ファリエーロの処刑』はその冷静な写実性によって処刑というドラマティックな主題を扱っているにもかかわらず抑制的である。それは「白く硬い大理石」の効果でもあるが、登場人物たちの視線によるものであろう。階段の下に横たわる死体は、首なしとうその異様な姿と衣装の大理石のような白によって存在を主張しているが、ほとんどすべての登場人物がそちらには視線を向けておらず、無関心なようである。公開された当時、この作品からは道徳的教訓が引き出せないことに当惑した批評家もいたということだが、この画面を支配する冷たく硬い無関心は、『民衆を導く自由の女神』が誕生を告知している近代のもう一方の側面である。同様な無関心はサルダナバールの視線にも現れて、過剰とも言える場面を支配している。彼の冷たい視線と官能的な裸婦の姿は対照的であり、それが画面左上から右下に流れる赤のうえに白く浮かび上がっている。そして、その赤で分割される左下と右上の過剰と空虚が対称的に描かれている。このような道具立てで浮かび上がる無関心さは、しかし、哲学的宗教的な諦念といったものではなく、表層的なものである。その表層性は近代を特徴づけている。『民衆を導く自由の女神』で女神に従い銃をもつ男と同様に、サルダナバールもまたドラクロワ自身の自画像だとも言われているそうだが、間違いないだろう。ロマン主義者ドラクロワは自身の時代経験を媒介として写実主義よりも深く近代を表現しているのである。