#186  差別と国家身体  カロリン・エムケ『憎しみに抗って』 | 思蓮亭雑録

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 現代は分断の時代だと言われる。まことに残念ながらそれは当たっている。個人的には差し当たり差し迫った問題のひとつは、コロナ以来米国に広がるアジア人ヘイトだ。コロナ以前、比較的外国人慣れしている西海岸の米国人(「米国人」が何を意味するかは複雑で興味深い問題だが今は措く)はアジア人に対してもナイスだが我々に向けられる微笑みは何かきっかけさえあれば簡単に憎悪の眼差しに転化するだろうと、知人と話したことがある。不幸にしてその予想は当たった。もちろん、圧倒的大多数の米国人は冷静だし、アジア人ヘイトと闘うために立ち上げる人たちも大勢いる。個人的にもコロナでヘイトに遭ったことはない(ただし、ずいぶん以前だが、「お前、日本人か」と因縁つけられ金を盗られたことはある)。しかし、アジア人ヘイト事件が急増していることは事実である。

 現在の分断状況が悲劇的なのは分断の強度ばかりではなく、分断と差別を告発することそのものを嘲笑し抑圧しようという姿勢が広がっていることである。おそらくそれは新自由主義的感受性と無関係ではないように思われるが、世界で最も新自由主義的完成優勢であろう米国と日本とでは告発への冷笑と抑圧は日本の方が強いような気がする。それは、部落解放運動のような闘いはあるにせよ、日本では差別への抗議がついに大きな社会的拡がりを持っていないということもあるだろう。米国では公民権運動の歴史があり「差別を許さない」という意識が人々の間である程度共有されていることもあるだろう。Black Lives Matterが人種の壁を越えて広がったことにもそのことは看て取れる。

 しかしまた、そこに現在の分断のもうひとつの悲劇性が現れている。Black Lives Matterがあれほどの広がりを見せたにもかかわらず、コロナ下でアジア人ヘイト以上に黒人へのヘイトが増加したということもそうだが、更に悲劇的なことはその黒人がアジア人を襲撃することである。この事態は差別と分断についてある本質的な事柄を示している。すなわち、差別と分断は差別され排除される側によっても再生産され、強化されるということだ。そしてこのことは「分割(分断)して統治せよ」という統治の本質にかかわることである。

 カロリン・エムケの『憎しみに抗って』が現在読むべき重要な本であるにもかかわらず、ひとつ不満を述べるとすれば、差別される側、排除される側を媒介とした差別の再生産という問題にあまり踏み込んでいないように思われるということだ。これはないものねだりではないと思われる。エムケはその性的志向から自身が差別される側の人間であり、本書にはその立場からくる洞察が含まれている。それだけに逆に、もちろん意図してではなく、差別される側を媒介しての差別構造の再生産という差別機械のメカニズムに絡めとられてしまう危険がある。

 エムケは「真にすべての人間が自由で平等とみなされたことなどない」と指摘し、民主的国民は「結局のところは別の他者を差別することでしか成立し得なかったと述べている。これは正しい指摘である。そして以下のように語るときに彼女は正しい。「すなわち、昔から政治的秩序は身体性(コーポレーション)という概念で描写されてきたのだ。そして全員(すなわちあらゆる独立した個人)の民主的意思と考えられていたものは、いつの間にか全体(すなわちあいまいな集団)の意思へと変わっていく」。この指摘は示唆的である。身体という全体性は単なる集合ではない。各部分は有機的に連結しその相互作用は身体全体へとフィードバックされる。また、エムケが指摘するように身体は皮膚という明確な境界をもっている。そして全体性を維持するために異物(と見做されたもの)をこの境界の外へと排除する。

 国家身体の統合のためのフィードバックには差別される側を介した差別構造の再生産も含まれる。先日サンフランシスコで黒人によるアジア人に対するあるヘイト事件があった(黒人はそのアジア人を日本人だと思ったのだが、実は台湾系米国人だった。この勘違い自体ヘイトを考える上で示唆的だ)。その黒人は被害者に対し「俺はこの国に奉仕する者だ。お前にこの国に居てもらいたくないんだ」と言ったという。まるで、身体にとって異物を排除する免疫機能のようである。しかもその身体は白い身体として彼のような黒い身体を排除してきたのだ。排除される側は時に自分を排除する側に自らを同化する。「確かに俺の肌は黒い。しかし、俺は海軍兵としてこの国家に奉仕してきたのであり、その俺には黄色いお前を排除する権利がある」というわけだ。統治はこの感情を利用するだろう。
 僕はエムケをこの著書によってしか知らないし原著を参照したわけでもない。だからとんでもない誤解から言いがかりを述べているのかもしれない。だが、彼女が「ヨーロッパの開かれた民主主義」と語るときに一抹の不安を感じるのも事実である。その民主主義が内側から腐食してしまったことが本書執筆の動機なのではなかったろうか。民主主義であろうと国民国家-身体の免疫の統合=排除機能には変わりがない。そしてこの免疫機能が暴走し自己免疫疾患を引き起こし、民主主義を内側から崩壊させることはあり得るのだ。それはかつてドイツで起こっった。