210709  解釈的知の保守性  フロイト『女性の性について』 | 思蓮亭雑録

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男性には、女性を去勢された存在と見て、いくらか軽侮の念を抱くというかたちで、去勢コンプレックスの影響が残っている。この女性蔑視が極端になると、対象選択の制止に至り、これに身体的な要因が加わることで排他的な同性愛が生じる。女性における去勢コンプレックスの作用となると、これは全く異なっている。女性は、自分が去勢されているという事実を認め、そのことで男性の優位と自らの劣等生を認めている。しかし、この不愉快な事態に逆らいもする。この分裂した態度から、三つの発達経路が生じてくる、第一は、性ということからの全面的な離反である。幼女は、男の子と自分を比べて驚愕して、自分のクリトリスに不満を抱くようになる。そして、自分のファルス的活動をあきらめ、ひいては性全般や、それ以外の領域での男らしさの大部分についても断念してしまう。第二の発達方向においては、頑なに自己を主張したまま、風前の灯となった男らしさに固執する。もう一度ペニスを手に入れたいという希望は、信じられないほど後の時期にまで保持され、人生の目的にまで高められ、何があろうとお構いなしに、自分はひとりの男なのだという空想が、往々、人生の中のいくつかの長い時期の形成原理であり続けたりする。女性のこの「男らしさコンプレックス」もまた明示的に同性愛的な対象選択を結果することもありうる。紆余曲折を経る発達の第三の方向に至ってようやく、父親を対象として選び、したがってエディプスコンプレックスの女性的な形式とも言える。正常な女らしい最終的形態に辿り着く。つまり、エディプスコンプレックスは、女性の場合は、比較的長期の発達の最終結果なのである。あおれは、去勢の影響によって破壊されるのではなく、むしろこれによって創り出される。男性の場合には、本人に破壊的な作用を及ぼす強い敵対的影響を免れている。実際、エディプスコンプレックスを女性がまったく克服していないことも極めてよくある。したがって、エディプスコンプレックスの崩壊から来る文化的帰結も、男性に比べて軽微でそれほど重要ではない。エディプスコンプレックスと去勢コンプレックスとのあいだの相互関係におけるこの相違が、社会的存在としての女性の性格を形づくっていると述べても、おそらく間違いではあるまい。220

Beim Manne erübrigt vom Einfluß des Kastrationskomplexes auch ein Maß von Geringschätzung für das als kastriert erkannte Weib. Aus dieser entwickelt sich im Extrem eine Hemmung der Objektwahl und bei Unterstützung durch organische Faktoren ausschließliche Homosexualität. Ganz andere sind die Wirkungen des Kastrationskomplexes beim Weib. Das Weib anerkennt die Tatsache seiner Kastration und damit auch die Überlegenheit des Mannes und seine eigene Minderwertigkeit, aber es sträubt sich auch gegen diesen unliebsamen Sachverhalt. Aus dieser zwiespältigen Einstellung leiten sich drei Entwicklungsrichtungen ab. Die erste führt zur allgemeinen Abwendung von der Sexualität. Das kleine Weib, durch den Vergleich mit dem Knaben geschreckt, wird mit seiner Klitoris unzufrieden, verzichtet auf seine phallische Betätigung und damit auf die Sexualität überhaupt wie auf ein gutes Stück seiner Männlichkeit auf anderen Gebieten. Die zweite Richtung hält in trotziger Selbstbehauptung an der bedrohten Männlichkeit fest; die Hoffnung, noch einmal einen Penis zu bekommen, bleibt bis in unglaublich späte Zeiten aufrecht, wird zum Lebenszweck erhoben, und die Phantasie, trotz alledem ein Mann zu sein, bleibt oft gestaltend für lange Lebensperioden. Auch dieser »Männlichkeitskomplex« des Weibes kann in manifest homosexuelle Objektwahl ausgehen. Erst eine dritte, recht umwegige Entwicklung mündet in die normal weibliche Endgestaltung aus, die den Vater als Objekt nimmt und so die weibliche Form des Ödipuskomplexes findet. Der Ödipuskomplex ist also beim Weib das Endergebnis einer längeren Entwicklung, er wird durch den Einfluß der Kastration nicht zerstört, sondern durch ihn geschaffen, er entgeht den starken feindlichen Einflüssen, die beim Mann zerstörend auf ihn einwirken, ja er wird allzuhäufig vom Weib überhaupt nicht überwunden. Darum sind auch die kulturellen Ergebnisse seines Zerfalls geringfügiger und weniger belangreich. Man geht wahrscheinlich nicht fehl, wenn man aussagt, daß dieser Unterschied in der gegenseitigen Beziehung von Ödipus- und Kastrationskomplex den Charakter des Weibes als soziales Wesen prägt.


 このような議論に対しては、男性の、フロイトの「男らしさコンプレックス」の表われで、男性による女性支配の理論的正当化だという反論は容易に考えつく。フロイトもそれは予期していて註で予防線を張っている。曰く、「異を唱える人々にしても、女性という性は、男女平等を熱望するとき、これに反するかに見えるものを受け入れるのはいやなのだ、ということを納得するだろう」。Die Gegner werden es ihrerseits begreiflich finden, daß das Geschlecht der Frauen nicht annehmen will, was der heiß begehrten Gleichstellung mit dem Manne zu widersprechen scheint. しかし、これに対しては全く同様に次のように言うことができるだろう。すなわち、「フロイトに賛同する人々にしても、男性という性は、男性優位を熱望するとき、これに反するかに見えるものを受け入れるのはいやなのだ、ということを納得するだろう」。たしかに、フロイトの議論に女性が反感を抱くであろうことは予想しやすい。しかし、同様にフェミニストの議論に男性が反感を抱くであろうことも予想しやすい。というように議論は堂々巡りしてしまう。そこで登場するのは父の権威である。精神分析の父フロイトは云う。「論争的なかたちで分析を用いたところで、何ひとつ決着を生むことがないことは明らかだ」。Die agonale Verwendung der Analyse führt offenbar nicht zur Entscheidung. 父は論争の停止を命じる。分析の論争的(agonal)な使用は父にとって痛みにみちた(agonal)なものでもあろう。「その種の精神分析的な議論は、あの有名なドストエフスキーの「両刃の剣」を想いこさせる」のである。Allein eine solche psychoanalytische Argumentation mahnt in diesem Falle, wie so häufig, an den berühmten »Stock mit zwei Enden« Dostojewskis. まさに議論は「両刃の剣」であり、その刃の一方は父に向いている。とすると、父の権威の裏側は怯懦なのではないだろうか。
 このことはフロイトという個人の心理にのみかかわる問題ではないだろう。それは精神分析の方法の本質的な保守性にかかわることのように思われる。凡そ解釈は既在の所与を俟って発動するものではないだろうか。確かに解釈には所与を新たな相に於て見せるという創造性、あるいは暴露性があるだろう。それゆえにこそ精神分析は大きな抵抗に遭った。しかし、それは現にあるものの深層の暴露であり、それが暴露でありうるためにはむしろ現にあるものが積極的に肯定される。その意味で精神分析‐解釈は現状維持的である。暴露は現状に関係づけられ、それに支えられてこそ暴露としての意味をもつ。

 暴露が現にあるものを変容させるということも考えられるだろう。しかし、精神分析‐解釈が本質的に現状維持的であるのならば、その変容の経験と実践は解釈とは本質的に分けて考えられるのではないだろうか。もちろん精神分析‐解釈も治療行為として大きな実践性をもつが、治療という行為はそこで正常が前提とされているという点で本質的に保守的なものである。そこではありうべき正常が前提とされるが、その正常とは社会の多数派、力をもつ側が正常と見做す現状であろう。このような精神分析の知‐解釈的知は解放の知というよりも拘束の知として機能する。ひとは現状を現状の権力関係を正当化するように解釈するだろう。正当化は正統化である。つまり現状は神話的原初に関係づけて正統化される。しかし、その原初は現状が見たいと思う原初であって、ここでは原初が現状から正当化される。このように精神分析的知‐解釈的知は自己肯定の知として反省的である。つまり、解釈的知の現状の正当化は同時に解釈的知そのものの正当化となる。しかし、このような内的な、ナルシスティックな正当化-満足の営みは同に、フロイトも云うように、他の排除と蔑視の営みでもあろう。この点に無自覚であるときに精神分析的知は父の命令、支配の知になるのではないだろうか。

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“I Have a Dream”. This portrait is named for the speech delivered by the US civil rights activist Martin Luther King Jr during 1963’s March on Washington, in which he called for an end to racism. (Photo by Forough Yavari/International Portrait Photographer of the Year)

僕たちは夢の知を持ちうるだろうか。