微笑を浮かべること  アラン『プロポ』 | 思蓮亭雑録

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そして、わたしは生まれつきの楽観主義者で、そのことに悦に入っているが、要するに、たとえ役にたつものでも、幻想が真理として通用したことは一度もないと言いたかったのだ。それは、現にあるものと、そうあらしめたいと思うものとを混同することだ。

信じ、希望をいだき、微笑を浮かべていなければならない。そして、それとともに仕事をしなければならない。規則中の規則として不屈の楽観主義を自分に課さなければ、たちまち、もっとも暗い悲観主義が真実になってしまうのが、人間の条件なのである。 
『こわばりを解きほぐす』

 悲観主義とは怠惰の結果であり、怠惰は鈍感の結果である。鈍感と怠惰とはたんなる弛緩ではない。その鈍重さは自らの身体即ち精神をこわばらせ、その世界との生き生きした交渉を阻害する。そのとき、身体即ち世界は精神にとって牢獄である。そして牢獄にあるひとは幻想を抱く。幻想は希望ではない。なぜなら、希望は裏切りうるが、幻想は決して裏切らないからだ。裏切らない幻想はある種の必然性、物語的な必然性である。つまり、悲観主義者は必然性の牢獄に囚われていながらその物語の結末を知っている人のことだ。注意しなければならないことは、この牢獄は悲観主義者にとっては居心地がいい場所だということだ。現にあるものと、そうあらしめたいと思うものを混同しているわけだ。しかし、それらは相互に裏切りあうものだ。そして、おそらくそこに希望の、また寛容の場所があるのだ。したがって、信じること、希望をいだくことには修練が必要である。僕たちが陥りがちな牢獄を避けなければならないのだ。それはまず何よりも身体的な修練だ。空を見上げ、深呼吸をし、微笑を浮かべること。微笑は悲観主義者の冷笑ではない。悲観主義者はその思い上がりから冷笑を浮かべるが、楽観主義者の微笑は裏切りに堪える覚悟、言い換えれば寛容なのだ。悲観主義者はその鈍重さによってそうあらしめたいと思うものを現にあるものとしてしまうのだ。

 

Nomadic Pamir Kyrgyz children herders in the isolated mountain valleys of northeastern Afghanistan. “Children are a rare gift”, as the saying goes among Afghan Kyrgyz. In the Pamir, the back of children is pinned with talismans for their health at times when good care becomes useless. During winter, the harsh climate is marked with lows reaching easily –40° C and summers are made of only two months over 0° C. (Photo by Tobias Marschall/Courtesy Photo)

崇高