「言葉‐我々」の形式  三木清『唯物史観と現代の意識』「マルクス主義と唯物論」 | 思蓮亭雑録

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存在の中和性は概念の抽象性もしくは普遍性によつて成立するのでもなく、また反對にそれの特殊性もしくは個別性によつて基礎付けられてゐるのでもない。むしろそれは獨立なる、具體的なる、しかも夫々の存在を表現する。簡單に云へばそれは存在のJeweiligkeitの謂である。現實のどれでもの存在が凡庸性ということによつて意味される。アリストテレスの謂うτο  εκαστονとはかかる性格に於ける存在であって、多くの場合考へられているやうに個別的なるものの謂ではない。言葉が最初には實踐的性質のものであり、そしてこの實踐が本質的には社會的性質のものであるところに、存在の凡庸性はその根源をもってゐる。このとき存在はもちろん交渉的存在である。前段で述べた、「意識‐主觀」の形式にあってはそれに對するものは客觀または對象としての存在であるが、これに反して「言葉‐我々」の形式に於てはそれに對するのは交渉的存在であるの他ない。  全集3-60f.

 具体的な存在とは交渉的な存在である。或いはこのように云ってよければそれは生活世界的な存在である。したがって、それは關係的な存在であろう。具体的存在は例えば有意義性に於いて存在する。しかしそれは勿論、有意義性がまず在ってそこの具体的存在が位置づけられるということではなく、有意義性自体がこの具体的な存在に於いて明け渡されるだろう。このときに世界は環境として世界化する。また、このときに私は具体的な存在との交渉的存在であることに於いてその環境としての世界のうちに存在する。そしておそらくこのときに初めて私は「我々」と言うことができる。このときに私は我の数多性のうちに入る。ただし、それは他者から汝と呼びかけられることによってであり、数多性は我‐それによって開かれてくるだろう。この我‐汝關係と我‐それ關係が重層する実践的‐人称的世界は言葉の世界であろう。「言葉‐我々」の形式には二方向があるように思われる。ひとつは「我」が「我々」のうちに埋没してゆく方向性であり、もうひとつは「我々」と語る「我」が他の数多の「我」を「それ」として三人称化しつつそれらを対象化し自身はそこから浮き上がってゆく方向性である。「言葉‐我々」の形式はスタティックなものではなく、このような方向性の動的な緊張関係或いは闘争の世界ではないだろうか。

 

Grade 5 student Lovely Joy De Castro, 11, takes notes while attending an online class using a smartphone, as schools remain closed during the Coronavirus disease (COVID-19) outbreak, at Manila South Cemetery where she lives with her family in Makati City, Philippines, November 6, 2020. (Photo by Eloisa Lopez/Reuters)

子どもたちが学ぶ姿を見るのが好きだ。その学びは、確かに世界にはうんざりすることもたくさんあるが、基本的に世界は美しいし、僕たちはそれをより美しくしうるという想像力を育てるものであるべきだ。