#160   魂の植民地化としてのポストコロニアリズム    エルマンジュラ『第一次文明戦争』 | 思蓮亭雑録

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 文学にしてもそうだが、イスラム圏の知識人の論考が僕たちに読めるかたちで届くことは欧米のそれと比べて極めて少ない。2015年の段階で世界のイスラム教徒の人口が18億人を突破していることを考えるとこの圧倒的な不均衡は大きな問題だ。僕たちがイスラム圏について知るのは多くの場合欧米の(そして日本の)「イスラム通」「アラブ通」を通してであって、そのような人たちすべての知的誠実さを疑うわけではないが、やはり健全な状況ではないだろう。そこにはポストコロニアル的なバイアスがかかっている可能性がある。それは、イスラム通、アラブ通のバイアスということばかりでなく、彼女ら彼らがソースとするであろう、イスラム圏の知識人自身にもポストコロニアル的バイアスがかかっているということである。

 エルマンジュラが本書で問題とするのもそのような状況と当のポストコロニアリズムである。「ポスト・コロニアル」というのは世界が植民地主義を脱したということではなく、むしろ植民地主義が世界の新秩序として完成してあらたな段階に入ったということである。本書で直接的なテーマとなっているのは湾岸戦争であるが、この出来事は時代が「ポスト・コロニアル」に入ったということをあからさまにしたという意味で世界史的な画期的出来事である。

 エルマンジュラは、湾岸戦争は最初の世界戦争だった云う。確かに、20世紀前半の「世界大戦」、特にふたつめの「世界」大戦は地球上の広範囲で戦われた。しかし、それは地球上の広範囲が欧米及び日本の植民地であったということによるだろう。それに対して湾岸戦争からイラク戦争は限定された地域で戦われたが、膨大な兵力と兵員が投入され、世界の多くの国が参加した戦争だった。それが世界大戦と呼ばれるのにふさわしいのは旧植民地の国々も参加国として関与したからだ。それゆえ、それは「ポスト・コロニアル」の時代を象徴する戦争だった。

 ポストコロニアリズムとは、近代化を西洋化と同義に捉える単線的近代化モデルによって多様性を圧殺する思考である。それに対する非西洋の選択は、日本のように範例としての西洋に倣って一応の近代化を果たし範例に倣って植民地主義的段階に入るか、植民地化に甘んじるか、開発独裁に陥るかであった。しかし、科学技術の飛躍的発展が生みだす市場経済社会は自らの維持のために資源と市場の供給地つまりは搾取対象を必要とするため、西洋もまたこの欺瞞的構造から抜け出すことはできない。それゆえ、西洋はこの構造自体を維持するためのヘゲモニーを強化しようとする。重要なことは、ここでそのようなヘゲモニーに支配される側が同じ価値観を内面化しているために意識的、無意識的にそのようなヘゲモニー形成に積極的に手を貸すということだ。つまり、ポストコロニアリズムとは魂の植民地化なのだ。エルマンジュラが指摘するように、湾岸戦争とイラク戦争はまさにそのような状況をドラスティックに明らかにするものであった。

 ポストコロニアリズムによって魂が植民地化されるのは被支配者ばかりでなく、支配者もである。エルマンジュラのこの本のタイトルはハンチントンの『文明の衝突』を思い起こさせるが、実際この本はハンチントンに影響を与えたという。そこで驚くのがこの本を読んで出てくるのが「文明の衝突」というような底の浅い嗤うべき発想に過ぎなかったということである。エルマンジュラの発想は、まさに「文明の衝突」的な発想に反省を促すものである。ここに西洋というものの魂の自己植民地化の根深さを見ることができる。

 このような状況打破のためにエルマンジュラが強調するのは「記憶」である。僕たちを支配しようとする者はまず何よりも僕たちの記憶を支配しようとする。それは同時に僕たちの生を奪うことである。なぜなら、僕たちの生は記憶に於いてあるからだ。記憶の支配による魂の植民地化はそれ自身の内部からも生じる。僕たちは自ら記憶を捨て、改竄しようともするのだ。というのは、記憶は僕たちを形づくるものであると同時に僕たちを告発するものでもあるからだ。それ故、僕たちはこの告発に耳を傾け、記憶を真にわがものとしなければならない。

 ここで非常に重要なことは、そのように被支配者が記憶を取り戻すことは、西洋近代に対して「衝突」という意味で自己を対抗させることではないということである。それは、その衝突図式自体が単線的な近代的思考に陥っているという意味でハンチントンの発想である。そしてそのような衝突図式で西洋に対抗するとはむしろポストコロニアリズムに資することにしかならないだろう。支配者は被支配者の告発の声ばかりでなく、自己自身の告発の声を聴きている。それ故、支配者はその声を隠蔽し、改竄する。そしてそのことによって自らを失っている。だが、告発の声はいわば良心の声であり、その呼びかけは僕たちひとりひとりを我にかえす個別化の声であり、その個人個人を連帯させる声である。なぜなら、良心の声の聴き従う者としては僕たち個人個人には何の差別もないからである。そして、ひとりの人の良心への聴従は他の人の聴従への促しとなるだろう。そこに真の意味での対話が生じる。これは近代化=西洋化という単線的なポストコロニアリズム思考を多様性に開いてゆく重要な方法であると思われる。

 以上のような点で、最初に述べたような知の不均衡性は是正してゆかねばならない。僕はこの本を古書で手に入れたのだが、前の持ち主は巻末に「イスラム教の偏向が気になる処」と書き込んでいる。嗤うべきである。エルマンジュラは、自分は敬虔なイスラム教徒であると述べており、イスラム教の「偏向」は彼を養っているものだ。そのような「偏向」は僕たち誰しもがもっているものであり、その「偏向」を自身の記憶と教養として保存しつつ他者へ開かれてゆくということがポストコロニアリズムに対する武器としての対話である。