自由と知識  サイードとチョムスキー | 思蓮亭雑録

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 1975年にサイードはその前年に刊行されたチョムスキーの『中東に平和はあるか』について書いている。そこでサイードはアラブ世界についてのチョムスキーの知識と理解の限界を指摘しつつも、その勇気と洞察を称賛している。そしてサイードは以下のように書いている。


 「アラブの読者にチョムスキーの本が指し示す大きな課題とは、ただ単にユダヤの知識人共同体のなかに一人の立派な友人を見つけることではない。むしろチョムスキーは、一民族として、個々の知識人として、他者による継続的な支配の脅威に対し、明確にしつつ固守すべき立場から抵抗するよう私たちに迫っているのだ。彼の取り組みの根底にあるのは、人間的・社会的制約のなかで自由と知識を理解したいという欲求、より正確に言えば、無知(あるいは偽りの情報)の支配がもたらす要素としての自由と知識ではなく、友愛に満ちた協調がもたらす要素としての自由と知識を理解したいという欲求である。」

  サイードが受け止めたチョムスキーの呼びかけは、時間と場所、置かれている状況を異にする僕たちに対する呼びかけでもあるように思う。というのはここで自由と知識は「人間的・社会的制約のなかで」理解されるものとされているからである。これは単に自由と知識の相対性を言っているのではない。自由と知識はむしろその置かれている本源的な相対性のの故にかえってその相対性を貫いてある普遍性に触れているのだ。というのは「友愛に満ちた協調がもたらす要素としての自由と知識」は「歴史、短期間の現実、長期の展望をひるむことなく吟味し続けるたゆまぬ努力を私たちに要求する」からだ。

  これに対し、「無知の支配がもたらす要素としての自由と知識」は、それが如何に溌剌として精緻であるとしても僕たちの精神を怠惰にし、吟味の努力から逸らすだろう。そしてその危険はこのネットの時代にますます増大している。「無知」が自由と知識を使って僕たちに差し出すのは「アイデンティティ」ではないだろうか。

  アイデンティティ(多くの場合に「集団的」或いは「帰属の」アイデンティティだ)というのは馬の鼻先にぶら下げられたニンジンのような不思議な言葉だ。「アイデンティティがないと不安で耐えられない」とか「アイデンティティの喪失」などと言われるとそのこと自体が不安になり、アイデンティティを求めて右往左往してしまう。だが、それはサイードの言う「固守すべき立場」だろうか。むしろ、その立場を覆い隠してしまう無知のヴェールではないのだろうか。

  帰属のアイデンティティが批判を封殺してしまうのに対して、「固守すべき立場」は批判的である。というのはそれが断固として非妥協的だからである。自分自身に対しても。しかし、非妥協的だからこそ他者とつながることができるとも言えるのではないだろうか。というのは単なる妥協にはそもそも他者が存在しえないからであり、従ってそこには友愛もないからである。逆に友愛とはある意味で「否」と言い続けることではないだろうか。サイードがチョムスキーに対するように。そしてそれが知識人の役割ではないだろうか。

 (サイードもチョムスキーもそれぞれの専門分野で消しえぬ業績を成し遂げた大学者だが、そのことが彼らを知識人としているのではない。彼らが知識人であるのは、彼らがやむにやまれぬ「否」を発するからだと思う。人は「それは唾棄すべきことだ」と言うときに知識人になるのだと思う。)