200524  服従の境位    バリバール『スピノザと政治』 | 思蓮亭雑録

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現実的な自由が力能および自立と同義であるのに対して、服従はつねに依存を表しているのだ。しかし、まさにここで、注目すべき弁証法が新たに作動し始めるのである。理性はそれじたいでは何も「命じ」ない。だが、理性は、自己を維持できるように規制された国家こそが、有益さを実効的なかたちで追求する、すべての試みにとっての条件であると明示する。したがって、理性に導かれた諸個人は、そのような国家が現に存在することを欲しなければならないわけであり、国民全員がそうであるように国家に服従しなければならない。これと相互して、われわれが先に定義した意味で「絶対的な」国家は、とりわけ自らを保持することを目指さなければならない。たしかに、この見地からすれば、諸個人が怖れを動機にして法に従おうと愛を動機にして従おうと、国家にとって違いはないわけである。けれども国家は、諸個人の絶えざる服従を確実なものにするためには、彼らに対して安全性と内的な平和を保証しなければならず、また、それ以上圧縮することのできない個体性の最低限を脅かしてはならないのだ。すでに見たように、すべての「絶対的な」国家組織が目指しているのは、それぞれ情念に導かれている、あたかも理性に導かれているかのように行動させることである(『政治論』第一〇章第四-六節)。この意味で、集団的な合理性が可能になるための条件には、統治者であれ、被統治者であれ、少しも理性的でない諸個人ともっとも理性的な諸個人が等しく服従することが含まれていると言える。こうした共同の規則こそが認識(または理性)に群集=多数者の諸情念に対する影響力を授けるのだ。各人が孤立したままでは、理性は無力なものでしかないだろう。166f

 服従を命じる者は服従する者の内面性は問わないだろう。問題となるのは服従するものが命令通りに行動するということである。服従な身体的なものである。ところで、スピノザは精神が身体に働いてそれを動かすという考えを退けている。というのは精神も身体も同じ一つのものを構成しており、むしろ精神は身体の観念であるからである。まず内的な精神の服従があってその命令によって身体的な服従が生じるわけではない。そのような想定は、まず個人のレヴェルにおいて、身体という機械のなかにそれを操作する、それ自体身体を有する個人を想定するようなものであり不合理であろう。また、現実にも諸個人の精神に服従を自らの身体に命じるように説得するのは不合理である。しかも、そもそも理性はそれ自体では何も命じないとしたらどうであろうか。しかし、現実には国家社会は何らかの平衡状態に達している。我々は国家も個人もマルティテュードの抽象であるということを忘れてはならないだろう。つまり、個々人が理性的判断からであれ、恐れからであれ、愛からであれ、統治権力に服従して国家社会を形成するのではなく、マルティテュードからの諸情念の偏差としての諸個人の布置とやはりマルティテュードの抽象としての国家の様態とが並行しているのではないだろうか。あるいは、精神も身体も同じ一つのものを構成しているように、諸個人も国家も同じ一つのもの即ちマルティテュードを表現しているとは言えないだろうか。もしそうであるとすれば、表現的なものとして国家も諸個人も観念的なものとは言えないだろうか。従って、諸個人の布置はまず何よりも観念の布置である。個人の活動はこの観念の布置に限定されるのではないだろうか。その意味では諸個人は常に既に服従している。しかし、同時に諸個人の活動が観念の布置に変容をもたらすということもあるだろう。

 

Manon, 13, from France, dances at the Catalunya square in Barcelona, Spain, Monday, April 27, 2020, as the lockdown to combat the spread of coronavirus continues. Health authorities in Spain are urging parents to be responsible and abide by social distancing rules a day after some beach fronts and city promenades filled with families eager to enjoy the first stroll out in six weeks. (Photo by Emilio Morenatti/AP Photo)