191013  運命に就いて  ジンメル『生の哲学』 | 思蓮亭雑録

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われわれが純粋に内面的な運命について語るとき、自我自身はそれに応じて主体と客体とに分裂している。われわれはわれわれにとって、認識作用の客体であるのと同じように体験の客体でもある。われわれ自身の感情、思考、意欲が、われわれにとって「出来事」という範疇のもとに移るやいなや、先へと流れてゆく主体的で中心的な生は、外面的な世界の諸内容によって触れられるのと同じように、それらのものによって触れられるのである。われわれは、われわれの人格全体のまとまった範囲内で遂行されるこの接触を、運命と呼ぶ。その接触が、もはや、あの中心的な自我の内面的な意義に対して単に偶然的であるような、単なる生起とは見なされなくなるやいなや、そう呼ぶのである。すなわち、われわれの現実存在のこの因果的に浮かび上がるもの、現実的なものが、まさしく現実存在のこうした意味に順応し、この意味から新しい意義を―高めようと、そらせようと、変容させようと、破壊しようと―獲得するやいなや、そう呼ぶのである。われわれはわれわれ自身に対してすら受動性のうちにある。この受動性は、われわれの生の中心的な能動性に同化されしかも能動性を規定することにおいて、いわば能動性からの反射を介して、意義あるものして、つまりわれわれの生のために目的論的に規定されたものとして現われるのである。158f

―ジンメル『生の哲学』

 我々は自身の身体をも含めて外的環境をもつときに内面性をもつ。内面性は外的な環境によって限定されるが逆に内面性は外的な環境を限定する。我々は自身の環境としての身体を或る程度限定することができるし、身体を道具として身体外的な環境も限定する。我々の経験即ち内面性の変容は何等かこの環境としての身体自体が媒介となって成立するもののように思われる。そして、この内面性の変容の成立とはそれが出来事つまり表現となるということであって、そのようなものとして内面性は私を凌駕する環境として私を限定する。私の感情、思考、意欲は私のものでありながら私を凌駕し、私を不意打ちするものである。それは私が逃れることのできない偶然性である。それは酷薄な伴侶であり、他者のような自己自身である。内面性の変容としての経験は表現として世界の内に現実化され、その内で意味を獲得する。その意味が私の生にとっての意義となり方向性を与える。それは我々の生のために目的論的に限定されたものであると同時に目的論的に限定するものとして現われる。謂わばそれは呼びかけとなるが、私はその呼びかけに応答して新たな変容となったり、応答し損ねたり、呼びかけを聞き逃したりする。とうのは呼びかけるものは本来的に他者だからである。そして他者が否定である限りに於いて、私の生の表現、現実性としての経験は同時に私の否定であり、死である。このような内面的環境を我々は運命と呼ぶ。それは単なる外的なことではなく、呼びかけと応答である。応答し得るということは私の根本的な能動性であるが、それは何処までも根本的な受動性に規定されている。応答は何処までも呼びかけに後れをとっている。また、その遅れは負い目である。もしそのようなことが言えるのであれば、遅れは運即ち私の経験の根本的な時間性であり、その負い目は我々の生の責任の根拠と言えるのではないだろうか。

 

A University student throws a stone at riot police during a protest to demand better funding for education in Bogota on October 10, 2019. (Photo by Raul Arboleda/AFP Photo)