安保法制、反対学者に国際政治学者が少ない | 思蓮亭雑録

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 賛同者の中に国際政治学者が少ないということは特に驚くべきことではない。近代国際政治の起源はウェストファリア条約以来と言えるが、国際政治学がその活躍の場を見出すのは特に第二次大戦後ではないだろうか。そこでは国際政治はヘゲモニー形成とそれによる国際秩序形成の理論ということになろうか。そして、第二次大戦後、特に冷戦終結後のヘゲモニーはアメリカが一手に握っている以上、国際政治学がアメリカの支配の追認に傾きやすいのは自然な傾向であろう。そもそも国際政治学という学問はアメリカの影響のもとで広がったとも指摘されるし、白井聡氏によると、アメリカの大学の国際関係専攻の授業では、「どうやって米国の国益を最大限化するのか」がこの学問の前提であるということをはっきり言われるいうことだ。(とはいえ、白井氏のように国際政治学者を「アメリカの第五列」とか「国際政治学者の9割方は安保マフィア」と言い切っていいかどうか。むしろ彼らは自分たちの学問的枠組みの中ではアメリカの覇権ということ以外を語る言語を持たないのではないかという気がする。少なくとも、自身の学問を相対化する視点を持たない限りは。)

 現在審議中の安保法制の最大の問題点は、その前提となる集団的自衛権の行使容認というこれまで違憲とされてきたことを閣議決定だけで転換し、法案化して国会に提出していることである。これは時の行政府の恣意的な決定を憲法の上位に置くことであって、立憲主義にも三権分立にも反し、これを認めては近代的民主主義国家の崩壊である。これには例え集団的自衛権の行使容認に賛成する立場であろうと反対せねばならない。少なくとも、日本を近代的立憲主義国家の地位から貶めても他国のパシリにでもしたいというのでなければ。しかも、これは日本一国の問題ではない。立憲民主主義はマグナカルタ以来人類が数々の悲劇と試行錯誤を経た現在に於ける到達点である(これについては「西洋中心主義的な見方だ」という批判があるかもしれないが、今はそれに立ち入らない)。ナチスの野蛮を経ても尚今立憲民主主義をこのように骨抜きにすることは歴史と先人に対する裏切りでもある。

 にもかかわらず、例えば先日の村田晃嗣氏の国会での発言。あれは自身の政治的信条から論点をこの問題点から意図的に逸らせようとしたものと言わざるを得ない。村田氏は例の日本会議と関係があり、それに近い政治的信条を抱いていると推測される。また、上で述べた学問の性格から国際政治学者に法案賛成の考えが少なくないと推測される。そのこと自体は問題ではない。しかし、安保法制が必要であれば、まずは憲法を改正して法案を提出すべきだと主張しなければならない。でなければ、論理的首尾一貫性という学問に最低限必要な要件を曲げてしまう。これでは「学を曲げ、権力に阿る」と言われても仕方がない。

 尤も、個人的には国際政治学者よりも所謂理系の学者の動向の方が興味がある。これも白井氏が「学者の会」への賛同者に理系が少ないことを嗤っていたが、理系、特に医学、獣医学、薬学、工学系などの学者は仮に内心賛同していてもその意思表示は難しいだろう。お上にたてついては科研費が心配だし、企業とのプロジェクトもままならないだろう。科学技術の進歩が戦争と結びついて果たされてきたように、理系特に応用分野は権力との親和性が高い。かといって逆に法案賛成であってもそれを口に出すのも憚られるのではないか。いずれの立場にせよ政治の積極的な関心と意見を持っていると見なされること自体が自身の立場を悪くしかねない。ここは象牙の塔に立て籠もってわれ関せずを決め込むか、声を上げる者を冷笑の目で見るかが無難ということになるだろう。白井氏の嘲笑もその辺りを意識してのことではないか。

 しかし、良かれ悪しかれ理系は大きな力を持っている。理系の知見がなければ世の中たちいかない。そして科学技術が我々にとって大きな問題となるのはそれが社会と交差する場面だが、この場面は「トランスサイエンス問題」は生じるところだ。この問題には理系の学者だけでは対処できない。池内了氏が指摘するよう理系の学者を含めた広い人々の議論が必要だ。しかも、そこでは理系文系問わず学者もそのタコツボ化した分野を越え、その学問的知見を活かしつつ市民として考え発言しなければならない(勿論。国際政治学者も)。その意味で、理系であっても自身の政治的見解を自由に述べる社会でなければならない。



http://www.j-cast.com/2015/07/21240759.html