覆水盆に返らず | ヒーリングルーム Angel touch

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ヒーリングルームAngel touchのブログです。
【より善く生きるためのヒント】
として、
癒しのステップに役立つヒントを綴っていきます。


誰でも
後悔を伴うような失敗をしたことがあったり、
誰かや何かから

「被害を被った」と感じるような出来事があったりしますよね。

今日はそんな想いをどう扱うか、というお話です。

人生においては誰にでも、必ずある体験なのですが、
そこで発生した感情の扱い方には差があり、
場合によってはこういった体験がきっかけで鬱になってしまいます。

少しの間ならそれも仕方がないかもしれませんが、
何年もに渡りその状態が続いてしまうのだとしたら、
お世辞にも健全な状態とはいえませんし、
「仕方がない」わけでもありません。


シンプルに考えて、
何か間違いをしてしまった、という時、

それに気づき、
そこから学びを得て、
修正すること、
次に同じようなことをしないようにしていくこと以外に、
私たちがやれることはありません。


時間を戻して、

「なかったこと」にしてやり直すことはできないのですから、

それしかないのです。


でも、
ずっと自分やその対象を責め続ける、
不満を言い続ける、

という状態に陥る場合があります。


まず最初に言っておきますが、
どんなことが起きたとしても、


何を見て、何を選択するかはあなた次第、です。

ですから、
同じような体験をしても、
前向きに手放して行動できるか、
ずっとそこに居続けるかは、
あなたの選択です。
誰かのせいではありません。


では、
うまく手放すことができず、
いつまでも(例えば何年も)自分や相手に対して責め続けることをやめられない場合、

なぜそうなってしまうのでしょうか?

「ひどいことをした(された)」
という思いが強ければ強いほど、
なかなかそこから移動できない(手放せない)

ということになりがちですが、


理由の一つに

「正しさ」に対するこだわり

があります。


「正しさ」「正義」を振りかざすほど、
そこから動けなくなるのが、私たちです。

文字通り、

「それが正しい(そこから移動するのは間違い)」
と思っているからです。

責めるのが自分であれ、
他人であれ、
責める側は責められる側に対して
「あなたは間違っている、だから責められて当然、
 責めている私は正しいのだから責め続けて良い」


と思ってしまっています。


「どうだったら、どうなったら、
 それ(責めること)をやめるのか(許すのか)?」


については考えられずにいます。

やり続けること(責め続けること)に正当性を感じているからです。


しかし、何度も言いますが、時は戻りません。

(覆水盆に返らず)

起きたことは変えられないのですが、
どこかでそれ(起きてしまったことそのものをなかったことにする、

あるいは出来事そのものを変える)
を願っていて、

それ以外の選択肢に対しては納得しようとはしていないのです。

もしかしたら、

かつて自分がずっと責められ、許してもらえなかったという体験をしてとても傷ついていて、
そのリベンジをしているのかもしれません。
(母親からそういうことをされたというケースも少なくありません)

「私はあの時どんなに謝っても許してもらえなかったのだから、
同じように許さないで良いのだ」

と、どこかで思っている、という場合があります。

あるいは、

正しく生きなければ自分をOKにできない、

と、自分に「正しく生きること」「正しい行動をすること」

を強いている場合もあります。

そうなると、自分に対しても他人に対しても、
「正しい行為」以外は受け入れることができません。

正しさは、人をがんじがらめにするのです。


しかし、実際には、

「正しい行為」だけをして生きていくことなどできません。
私たちは失敗をする生き物であり、
うまくいかないことから学ぶ生き物
だからです。

そしてそれは
「解決することから逃げている行為である」
ということに気づかなければなりません。

つまり、

本音の部分では解決したくないから、

いつまでもその行動(言動)を続けているのです。

不満をいい続けること、
あるいは
自分を責め続けることは、

実は

「前進しないため」の最大の武器になります。

反省し続ける、
後悔し続ける、
こんなに傷ついたのはあなた(それ)のせい、と言い続ける、

これらは皆、私たちをその場に留まらせることができます。

でもそれは、
自分自身を苦しませ続ける行為でもあります。
自分が楽になることはありませんし、
満足することもありません。

例え原因が「誰か」や「何か」という、
外側からやってきた(ように見える)ものだとしても、
そういう点から見て、

自分を苦しませ続けることは「正しい行為」ではないのです。

つまりその状態でいることがすでに「正しく」ありません。(笑)







「辛い体験」はさておき、

自分の人生をより良いものにしていく、
ということに着目した場合、

「正しさ」は必須ではありません。


残念ながら、
正しさをいくら主張し続けていても、
自分が幸せになることはありません。


むしろそれは自分を追い詰めるアイテムとなります。

不満を言えば言うほど自分に不幸を引き寄せることにもなります。
顔の表情にも出てしまいます。

顔は正直です。
素敵な美人さん、ハンサムさんでいたいなら、
心を綺麗にしていかないといけません。

(実際、不満を抱え続けている人は、
 顔の表情に「不満を抱えている」状態が現れてしまいます)


正しさを自分の支柱にしている人は、
自分が「正しくない」と感じたことを許容できません。


でも、
実際には「絶対的に正しい」ことなどなく、
正しさを振りかざすのだとしたら、
それは自分の視点でしか判断していない証拠なのです。

そのような正しさは、時には暴力になります。

正しさが暴力となるとき、
相手に対する感謝やリスペクトが足りていません。


どんなシチュエーションでも、
自分が得たもの、
学べたことがありますが、そこに目を向けることができないのです。

そこに対する感謝が本当にあるならば、
そこまで正義を振りかざすことはないからです。



(ネコはシマシマだって言ってるでしょ!!)
(そんなぁ・・・)

 



世の中には理不尽なことはいくらでもあります。
納得がいかないことも。

「何故私がこんな目に」
「なんでこんなことになっているの、ひどい」


それを言い続けるのは自由です。

でも、そのシチュエーションが自分の目の前にあるのは、
自分が引き寄せたということでもあり、

それをどう捉えて、どうに対処していくかという

学びの「きっかけ」にすぎません。



「私の言っていることが正しい」
と言い続けたところで、
事態は何も変わりません。

あなたが満足行くまで「お詫び」をし、
あなたをなぐさめ、
あなたが満足行くように誰かが状況を変えてくれる、

なんていうことは起こらないのです。


私たちの人生はどの体験も

「お勉強」です。

そこから何を学ぶか、その後どういう行動をするか、
どう意識を変えるか、
ということが本質なのだと理解できれば、

不満を言い続けたり、
自分を含めた誰かや何かを責め続けたりするのではなく、


「ではどうすればよいのか」
という方に意識を向けることができるはず
なのです。

自分が変えられることがあるなら、それをするか、
何もできないなら黙って受け入れ、受け流すか、
あるいは関わるのをやめるか。


私たちがやることはそのどれかしかないのです。

正しさを求め続け、
こうするべきだった、(でもできていない)ということに縛られると、
そうできなかった自分や、目の前の誰かは

「罪」となります。

しかし罪などどこにもありません。

それは自分で作り出して、

自分がそう思っているだけなのです。


失敗をしたとして
あるいは、されたとして

過ちを認め、謝って、
できる償いはしたのなら、 
それでおしまい、です。


逆にそれ以上何をすればよいのでしょう…?


それ以上やりようがないことを謝り続けるのも、
悔い続けるのも、
責め続けるのも、

終わりにしましょう。



そんなことをしていても、
自分だけでなく

誰も幸せになりません。


そして人生はいつ終わるか、誰にもわかりません。

あれこれ不満を垂れて、

その場から動かずにぐずぐずしている暇など、全くないのです。

自分を苦しめることを正当化していては、
この世界にやってきた「宿題」も終わりにできなくなってしまいます。

そして何より、

あなたが幸せに生きられるようになることはないのです。


自分の身に起きたことはすべて自分の体験であり、
自分が引き寄せ、
学びのきっかけにしたのだ、
ということを受け入れ、
自分に寛容になりましょう。


大丈夫です。
私たちは皆、誰もがそんなに正しくないし、
ちゃんとしていません(笑)

自分だって大してちゃんとしていないけど、それでいいんだ、
と許せるようになりましょう。

そして
「どうなりたいのか」
「どういう現実を目の前にしたいのか」
に意識を向けましょう。


あなたの目の前に広がる世界は、

間違いなく「あなた自身」が創っているのですから。



(間違えた? 

 じゃあアタシが直してあげるニャ)