ママのセラピーブログ

ママのセラピーブログ

長年の保育士経験から感じたことなど、ママや保育士さんへのメッセージとして綴ります。

また、自宅で開設している『子育てサロンひみつきち』の様子も紹介しています。

いつもブログを読んで頂き、ありがとうございますニコニコ

今日は、このブログで一番多く読まれている記事を、ご紹介します。

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読者のAさんからこんなメールを頂きました。

(前略)私、結構スマホいじる方だと思います。。恥ずかしながら子供の前でも。

このくらい大丈夫だろうとつい自分にあまあまになってしまっています。

○○さんのブログを見て反省したと同時に自分のしたことへの恐怖も感じました。

そこで保育に関してプロであるゆみっちさんから、スマホと育児に関することを深くお聞きしてみたくなりました。(後略)

Aさん、いつもご意見やご感想をありがとうございます。

一昔前(私達世代)はネットもまだ普及していませんでしたが、それでも

「テレビに子守をさせるな」

「授乳中はテレビを見ながらでなく、子どもの目を見て授乳しましょう」

などの警告は出されていたように思います。

それが今や、手軽にいつでも片手操作一つで様々な情報を得ることが出来だし、

孤独を感じればネットの中で誰かと簡単に繋がれるようになりました。

特に子育て中のママは、

一人で育児をしている感覚や、

社会から取り残されたような感覚になり、

ネットに居場所を求めたりしがちになるのかもしれませんね。

よく見かけますね。

子どもを全然見てなくて、スマホに必死なママ。

その時子どもはどこを見ているのでしょうね。

きっと、自分をみてほしくてママのことを見ています。

自分の言葉を聴いてほしくて、ママのことを見ています。

でもママのココロは、スマホにいっていて、子どもには向いていません。

空返事をしてみたって、子どもはわかっています。

「自分のこと見てくれてない。聴いてくれてない」って。

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「育てたように、子は育つ」

よく聞く言葉ですが、まさにそうです。

子どもに意識を向けず、

ネットに意識を向け、

子どもの思いや言葉を聴かずに育てれば、

子どもが大きくなった時、

逆のことが起こる可能性が高いです。

ママの話は無視。

スマホばっかりいじってる。

話しかけても聞いていない。

こっちを見向きもしない。

みんな自分がしてきたことです。

そのまま自分に返ってくるかもしれません。

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我が家の近所のママさんは毎日大声で子どもを怒鳴っています。

「怒鳴りすぎだろ・・・子ども、大丈夫かな?」

なんて要らぬ心配をしていましたが、昨日この親子の会話を聞いて心が温まりました。

庭掃除をしていたらしきママは相変わらず子どもに文句を言っていました。

それでも子どもは「おか~しゃん」と言って一生懸命話をしていました。

「もう、ゆっくりコーヒー飲もうと思ったのに、あんたが呼ぶから飲めんかったが~!」

と大声で文句をいいつつも、

「お兄ちゃんに置いていかれたんか。男の子ばっかりだしなぁ。そりゃ嫌だわなぁ」

なんて独り言みたいにつぶやいておられ、子どもが

「うん。男ばっかり。おか~しゃん・・」

と言ってる側で

「ちょっと!あんたもこの草抜いて、トントンってしてよ!」

なんて無茶なことを言ってたママ(笑)

一見ぶっきらぼうで、怒鳴ってばかりの「鬼ママ」に思えるかもしれませんが、

このママは器用ではないけど、

ちゃんと子どもと向き合っているのだなぁ

と感じました。

いつも怒鳴ってしまうかもしれない。

子どもに優しい言葉や、うまい言葉かけが出来ないかもしれない。

子どもを泣かせてしまうこともあるかもしれない。

それでもこのママはいつも、必死に子どもと向き合っている気がするのです。

それでうまくいかず、イライラをぶつけてしまっているようですが、逃げずに子どもとガチンコで関わっています。

この親子のやり取りを聞いて(盗み聞きではないのですが、声が大きいから聞こえてきてしまいます(笑)旦那に

「このお母さん、不器用だけどまっすぐで、一生懸命子どもと向き合っているね。

子どももどんなに怒られてもお母さんが好きな感じが伝わってくるわ」

と言うと旦那が

「そうだな。スマホばっかりいじって、子どものことを見てないお母さんよりいいんじゃないか」

と言っていて、あぁ確かにそうかもと思いました。

子どもは怒鳴られまくって悲しい思いをする時もあるけど、それでも確かにママは

「自分と正面から向き合ってくれている」

「自分の言葉を聴き、自分のことを見てくれている」

そう感じるのではないでしょうか?

スマホをいじっててこっちを向いてくれないママに、

そんなことを感じるでしょうか?

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だからといって、完璧に手放すなんて今の時代無理ですよね。

私も側にスマホを置いていたらついつい見てしまいます。

わりと、みんなそうなんじゃないかな?

あると見る。

あると触る。

だから、せめて子どもと遊んでいる時間は、

スマホを見えないところに置いてしまうなどして

視野から外すといいかもしれないですね。

私も着信音だけは最大にしておいて、

廊下に置きっぱなしにし、

目に入らない場所にスマホを置いて1日を過ごしたことがあります。

意識が「現実」や「今」に向くので、

なんだか逆に新鮮でしたよ。

便利になったこの時代。

何を取り入れ何を手放すのか。

選択は全て自分次第ですね。


この記事は、2017年8月に書いた記事を、加筆修正したものです。

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この記事は2015年4月に書いた記事を、加筆修正したものです。

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新学期が始まり、進級や進学で新しい環境になったお子さんに対して

「うちの子、大丈夫かな?」

と心配になってしまい、心が落ち着かないママはいませんか?

実は私も「超」がつくほどの心配性でした。

母親がかなりの心配性で、

”あれは危ないからやっちゃダメ!”

”~になったら、どうしよう”

と悪い予測をするのが得意で、いつも私に対してそういう言葉かけをしてきました。

もちろんそれは、子どもを愛するが故の言葉なのだと今ならわかるのですが、

それが私の心に大きな

「思い込み」

を植えつけたようです。

「世の中、怖いことだらけだ」

「何かよくないことが起こったらどうしよう」

と不安や恐怖の感情を常に抱えることが、癖になっていました。

しかし、様々な経験やお試し大魔王からの学びにより、

「ま、いいかっ」

と思えることが増えたのですが、今だに抱えているのが

「愛犬への心配」

先代わんこのラヴは誤飲が発端の事故で、1歳半という若さで亡くなってしまいました。

生前からラヴを見てるだけでなぜか涙がでてきたり、

泣いている私の心を知っているかのように

「大丈夫、ボクがいるよ」

と涙をなめてくれたりと、

ラヴとは何か

目に見えない深い繋がり

が、あるような気がしていました。

今考えるとラヴは私の

「母親への呪縛」

を解くためにやってきて、私に気づきを与えるために亡くなったように思うのですが。

当時はそう感じていても、悲しくて悲しくて生きている心地がしませんでした。

ラヴの死により私はペットロスに陥り、食欲もなくなり体重もかなりおちてしまいました。

そんな私を見てか、はたまた自分自身も立ち直るきっかけが欲しかったのか、

旦那がラヴの血をひくわんこを連れて帰ってきました。

それが、現在のわんこルナ。

なんだか複雑な心境ではありましたが、たちまち犬育てが始まり、少しずつ悲しみから立ち直り始めました。

しかし・・・・。

私は、外見がラヴと同じルナにラヴを重ねてしまっていました。

と、同時に

「もうあんな死なせ方をしちゃいけない」

という過度なプレッシャーが自分の中にあり、ついつい

「これはダメ」「あれも心配」・・・

という思いでルナに関わってしまうようになっていきました。

その結果、怖がりで散歩すらできない、臆病でしつけもできてないダメダメわんこになってしまいました。

ルナはアレルギーがあり、毎月病院に通っているのですが、

院長先生がルナより私を心配して(笑)いつも色々なアドバイスをしてくださっていました。

しかし、そのアドバイスもなんだかうわの空で、

「でも、ルナは~できない」

と決めてかかって諦めてしまっていました。

そんなある日、先生にラヴのトラウマのことを初めて話してみました。

「そうか・・・そういうことがあったのなら今のゆみっちさんの言動がなんとなくわかるなぁ」

と言われてうえで

「でもね、犬も生きてたら誤飲もするし、病気もする。

それは仕方ないこと。

そうなったら、そうなったときに考えればいいですよ

といわれその一言を聞いたとき、

「あ、そうか。信頼すればいいんだ」

と思いました。

多分私は、この先生のことも一緒に世話をしてる家族のことも信頼してなかったし、まして頼ってなかったのだと思います。

「私が」なんとかしなきゃいけない。

いつもそう思って自分に負荷をかけ、いらない心配をし、パニくりヘトヘトになってたのかもしれません。

「何かあれば、こんなに親身になってくれる先生がいる。信頼すればいいんだ。」

「自分ひとりで抱え込まず、家族に協力してもらえばいいんだ!」

そう自分の中で腑に落ちたとき、なんだか妙にすっきりして。

いつもなら病院の道中にワンワンいいまくるルナに振り回されてしまうのに、

その日は全然気にならず結果ルナもおとなしくしてました。

ルナは「私の心の映し鏡」だったのかもしれません。

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以前読んだ本に、こんなことが書かれていました。

「宇宙を信頼する」

著者が奥さんとダイビングをしていた時、なかなか潜れずにいた奥さんにインストラクターが

「ボンベを信頼してください」

と言われたそうで、その言葉通りにした著者は普通に出来たけど、

信頼できなかった奥さんは最後まで潜れなかったそうです。

それを受けて

「水中でボンベを信頼しない嫁さんのように、オレたちも日頃、何かを信頼していない。

それはなにか。

まさに「宇宙」と表現されていました。


確かにです。

私たち人間は常にこの「宇宙ボンベ」と繋がって生きています。

宇宙は、私たち人間の成長のために色んなことを経験させてくれ、

時にはお試し大魔王のように来て欲しくない嫌なことも連れてきます。

どうして、こんなことばっかり起こるんだろう。

なんで私ばっかり。

って生きてるのがイヤになっちゃうこともあるかもしれません。

でも、私たちは誰もがみんな「宇宙ボンベ」と繋がっているんです。

息苦しくなったら、ボンベから酸素を送ってくれるのです。

ただし、それは

「苦しいから、酸素を送って!」

「ヘルプ、ミー!」

と意思表示したり、苦しいことを知らせなきゃ酸素は微量しか送られてこないのかもしれません。

どんな時であったとしても

「必ず助けてくれる宇宙を信頼する」。

宇宙を信頼し、

身近な誰かを信頼し、

自分を信頼する。

信頼して甘えてみる。頼ってみる。

そうすれば、本当はなにがあっても「大丈夫」なのでしょうね。

でも、無理に「大丈夫」って思おうとしなくていいと思います。

心配で仕方ないときは、とことん心配しまくればいいし、もがけばいいと思います。

「こんなに心配症な私がいるんだなぁ」

ってただそう感じるだけでいいんですよね。

「心配性な私は嫌い!」

「こんな私、もうやめたい!」

とネガティブになる自分を嫌わず。

ただとことん心配して「心配性な自分」を感じてみればいいのです。

そうやって、心配してもがきまくったらあとはまた、

「宇宙を信頼」すればいいのでしょうね。

とことんまで心配しまくらずに、変に

「大丈夫、大丈夫」

って言って自分を押さえてた時が私もあったけど。

大丈夫じゃないのに大丈夫!なんて思うほうがしんどいです。

「大丈夫じゃない~!」

って叫んでもがいて苦しんで疲れ果てたとしても。

最後には

「ヘルプミー!宇宙ボンベ!」

で任せれば、気づいたら酸素を送ってくれていて

「あれ?何をそんな心配してたっけ?」

ってなることも多いです。

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新学期、お子さんに対して心配な事も多く気になってしまうかもしれませんが、お子さんを「信頼」してみてあげましょうね。

「心配な子」

「私が気にかけないといけない子」

ママがそう思っていると、お子さんは本当にそういう対象となってしまいます

「この子は信頼して大丈夫な子」

というママの思いはきっとお子さんに伝わります。

お子さんが話しをしてくれる時も、

「ママはあなたを信頼しているよ」

という気持ちを根底に持っておくといいですね。

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この記事を書いてから2年半たちました。

私の愛犬への過剰な心配性は、すっかり影を潜めました。

心配な時はとことん心配しまくり、

それでも最後は

家族を信頼し

宇宙を信頼した。

だから、穏やかな今があるのかもしれません。


今日もまた子どもたちが私に

「もっと、自分を信じてみればいいじゃん!」

「もっと、宇宙を信じてみればいいじゃん!」

と、教えてくれた数々の出来事の一つを紹介してみたいと思います♪

私が、4・5歳混合クラスを担任し、2ヶ月が経った頃に書いたエピソードです。

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最近、子どもたちを毎日毎日叱りながら

「どうして私は、こんなに子どもを叱っているんだろう?」

と自問自答している時があります 。

就学を前にしたこの子たちに、

きちんと身の回りのことができるように、頑張らせないといけない 。

友達の気持ちがわからないような 、

自分さえよければいいというような 、

そんなこの子たちをなんとか変えなくてはいけない 。

その気持ちの裏には

「私の保育がきちんとしている 。」

「私が担任をしたら子どもたちが変わった 。」

そんなふうに

「自分を周りに認めてほしい 」

そんな気持ちがあり、

それゆえ、必死になっている気がします 。

実はそれが子どもたちには、

お見通しでうっとおしくて 、

気持ちが逃げていってるのかもしれません。

今日 、いつも好き勝手しているS君を一対一で叱りながら 、

私は なんだか涙がでてきてしまいました 。

「どうしてこんなに 一生懸命関わってるのに わかってくれないの? 」

「どうして 私との約束を裏切るようなことばかりするの?」

悲しくて 涙がでてきたのだけど 、

いつもは 目を見ないその子が 、

涙を流している私を不思議そうにじっとみて

「ごめんなさい」

と 呟きました 。


私はなんだか、 

自分の理由ばかりで泣いてしまった自分が情けなくなり 、

その子をギュッと抱き締めて

「先生ね、S君のこと大好きなんだよ」

と 言った瞬間その時初めて

自分のためでなく、その子を思いその子のために泣けてきました

きっとまた明日になると 同じことの繰り返しなんだろうなと思います 。

今までの2ヶ月も ずっとそんな繰り返しでした 。

こんな子が クラスにたくさんたくさんいるんです 。

でも、私が この子たちの担任になったわけが少しわかりました 。

この子たちが気づかせてくれています 。

「あなたは何のために保育をし 、何のために子どもを叱っているの?」

誰かに認めてもらうためじゃないよね?

一生懸命になるのも叱るのも、

みんなこの子たちのため。

自分の見栄や満足のためじゃない。

一番基本で一番大事なことを 忘れかけていた私です 。

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この後、大事なことに気づいた私は、

子ども達一人一人としっかり信頼関係を気づいていきました。

相変わらずよく叱ったし、叱られるようなこともたくさんしてくれました(笑)

それでも

「先生は、自分のために叱ってくれてる。

自分を思ってくれている。」

そこに気づいてくれた子ども達は、少しずつ変わっていきました。

大切なことに気づかせてくれた子ども達に、

今でも感謝しています。

ありがとう、みんな。

(5年前の記事より)

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S君は、集団に入れずいつもマイペースな行動をとっていました。

しかし、年長ともなれば様々な行事をこなしていかなければなりません。

S君だけやらなくていい。

ということは通用しないのです。

その時、私の中に焦りが生まれ、

S君もみんなと同じように

「させなくてはいけない!」

と思ってしまい、毎日毎日叱ってばかりいた気がします。


S君は私の涙を見て、

自分が先生を苦しめている。

と気づいたのでしょう。

彼の「ごめんなさい」はまるで、

「こんなボクでごめんなさい」

と言っているようでした。


それを言わせてしまったのは、私。

自分の見栄や体裁のためにS君を叱り、

ありのままの彼を否定し傷つけてしまったのです。

焦りで大事なことが見えなくなっていた私に、S君は気づかせてくれたのです。

こんなふうに、

枠からはみ出て一見

「手がかかる子」「気になる子」

と思える子ども達は特に、

大切なものを見失いかけている私たち大人に、

様々なメッセージを送ってくれている。

そう思えてなりません。

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過去に書いた子ども達の記事を読み返すと、毎回同じことを書いているのに気づきます。

「大人が忘れかけていたことを、子どもたちが思い出させてくれている」

数奇な導きによって保育士になった私。

何度保育の世界を離れても、

またここに戻ってくるのは、

このメッセージを

沢山の人に届けていくため。

なのかもしれません。

この記事は2015年11月に書いた記事を、加筆修正したものです。
みなさん、こんにちは。ゆみっちです。

今日は、読者のAさんからいただいたメールをご紹介しますね。

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(前略)いつもブログ癒されています。

いつ誰に対してもそっと背中を押してくれるようなゆみっちさんの言葉たち。

以前記事にされてた「どっちでもいいや~」という感情。

主旨違っていたらごめんなさい。

私もその感覚になることでずいぶんと助けられています。

特に最近。

ちょっとやそっと嫌なことがあっても幸せ感覚がほぼ揺るがないのです。

ちょっとやそっとの嫌なことが以前は許せなくて、今 思えば

旦那が布団や食器を片付けてくれてないだけで「❌」をつけてた自分がいました。

こいつはまたダメだな、、と、超上から目線!笑

でもあるとき ふと、

それってそんなにダメなことなのかな?

って思いました。

大したことじゃないんじゃないかなって。

そこにあまり執着しないようにしたらあらあら不思議。

洗濯物がたたまれていたり、食器が洗われていたり、ゴミ出しされてたり、、

旦那が自発的に時々ですが( 笑)やってくれるようになりました。

~~~~~

いろいろな経験を通じて私は今、私でいられることにとても幸せを感じることができています。

全てうまくいっている、って以前は

「なにかいいことある」

と思ってましたが最近、そうではないんだな、と感じ始めました。

あくまで生かされているのであって

うまくいってるなんてエゴもいいところ。。

ただ自分らしくあればいい

そう思えます。

~~~~~

ゆみっちさんのおっしゃるように、ホンマに

「ほぼ(旦那の事を)見ないっ」

くらいの方がうまくいく気がいたします。笑

ゆみっちさんがいつもブログで書いてくださるように、人にはそれぞれタイミングもあるし

嫌なもの、嫌なときはやっぱり嫌で味わいつくすしかない!

私もそれがあっての今です。

いろいろやってみて、結果、

イライラするんも 飽きたというか

やっと無駄だって気づいたんですかね、私 笑

互いが気持ちよくいられるための路ってやっぱあるんだなぁと思います。

私が行き着いた先は

人間はやはり1人1人別個体なのだ

という当たり前なことでした。

要は思い通りにはならないということなのですね。笑

人は変えられない、だったら自分が変わるしかない

の本当の意味が少しわかった気がします。

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Aさん、いつも近況報告をしてくださりありがとうございます。

素晴らしい気づきの言葉の数々に思わず感動してしまいました!

出会った頃のAさんの一番のお悩みは旦那さまのことでした。

皆さんも、母であり妻であるならば多少なりとも感じますよね。

「旦那が何もしない!」

「何も出来ない!」

「使えない!」

「私ばっかり頑張ってる!」

って(笑)

男子・・・散々ですね(笑)

過去記事のどこかにも書いたのですが、そもそも違う生き物である男性と女性。

同じような感覚を求めても無理なんですよね。

でも母は忙しいので家の中に存在する一応"大人”の旦那に

「ちっとは助けろよなぁ」

「役にたってくれよなぁ」

なんて期待する。

でももちろん期待を裏切るのが男子(笑)

奥さんを、母ちゃんか何かとカン違いし甘える、何もしない。

それでイライラ。

なんてパターンが多いのではないかな?

うちはあきらかに↑これの代表選手でしたよ。

「なぁあんた3歳児?」

「我が家の3男」

と、いつも私にぼろカス言われてましたから(あ。今もね)

「この人が少しは助けてくれたら私もちょっとはラクになるのに!」

とそればかり思う。

すると旦那の残念な行動にばかり目がいく。

目が行くからそればかり気になる。

気になると次々気になりだす。すると、

「自分が見ているもの」が自分の元にやってくる

という宇宙の法則に則り、どんどん

「ダメんずな旦那」

の姿が目の前に突き出される。


宇宙の法則、ウソつかない(笑)

だからね。

見ないほうが上手くいくのよ。

私も、自分の楽しみや好きなことを見つけてそっちに夢中になりだしたら逆に、

旦那の良さが見えてきて。

私が好きなことをやっても黙ってやらせてくれる。

普段の会話は全く通じないけど(笑)大事な話になるとスイッチが入り良い事をおっしゃる。

なぜか休日の昼ごはんを作ってくれるようになった。

などなど・・・。

あれ?今までそうだっだっけ?

と感じるようなこと満載になってきて。

そりゃそうだ。

それまでは旦那の

「不足な部分」ばかり見ていたんだもんね。

そこしか見てないから、他の良い所が全然見えてなかったんだね。

見る場所を無理に変えたり、無理して自分が変わろうとしなくていいんです。

ただ、嫌なところを見なきゃいい(笑)

そればっかり見るから、そればっかり近づいてくるんだよ。

人は変えられないけど、自分が見ないようにすることは出来るね。

それからね。

妻だって母だって。

自分が一番になってもいいんだよ。

自分を一番に考えていいんだよ。


「お~いゆみこ。ご飯入れてくれ~」

「イヤだ~。今私テレビ見とる」

たまには自分優先にしていいんだよ。

「私あんたのお母さんじゃないもん」

でもね、そうは言ってもそもそも男子は甘えたがりで、褒めてほしがり。

だから、ちゃんと要所要所で褒めたり、面倒見てあげたりしとくと機嫌も良いよ(笑)

これも「バランス」だね。

旦那や家族のためばかりに頑張りすぎるから、しんどくなる。

バランスよく「自分優先」の時も作ってね。

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しょっちゅう家出を繰り返し、離婚するだのなんだのと言いながら・・。

二人で共に歩んだ年数が、親と過ごした年数と同じくらいになりました。

色々あったね。

色々あったけど。

「一緒にいて良かった」

今、ココロからそう思っています。

今日は私達夫婦の25回目の結婚記念日です。


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この記事は2016年2月に書いたものを、加筆訂正したものです。



この記事は2014年9月に書いたものを、加筆訂正したものです。


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私が保育士になり、初めて年長クラスを担当した時のこと。

 

クラスの人数は少なかったのですが、その中に成長面での障がいを持ったお子さんが3人いました。


当時は保育士になってまだ10年にも満たない未熟者だった私。

 

年長クラスを任されて張り切っていた反面、この子にたちどう関わっていけばよいのか・・。

悩んでいました。

 

こんな時、どうしてあげたらいいのだろう?

この子達に何をしてあげたらいいのだろう?

 

私は常に「何か特別なこと」を「してあげなきゃ」そればかり考えていました。

 


3人の担当に若い保育士さんがついてくれましたが、3人をよく知りたかったので私も積極的に関わりました。

 

クラスの子達が「同じ目線」で3人と関われるように、グループに一人しっかり者さんをつけて、関わりを持たせたり・・・・。

 

四苦八苦していました。


「なんとかしなきゃ」

「この子達にしてあげなきゃ」

「クラスがこの子たちを特別視しないようにしなきゃ」・・・・

 

そんな私の苦悶とはうらはらに、様々な出来事が起こりました。

 

一人の子は何度か園から出てしまい…。生きた心地がしない中、探し回ったこともありました。

 

見つけたときには、「無事でよかった・・・」とその子を抱いて泣いた思い出もあります。


あとの2人は仲が良かったのですが、互いに感情のコントロールが難しく、始終喧嘩。

 

とうとう顔をひっかくなどの喧嘩になり、一方の保護者から苦情もでてしまいました。

 

度重なる喧嘩と苦情、何度も謝罪にいく日々。

 

なんだかもうヘトヘトでした。

 

私の目指す「みんなが認め合い支えあうクラス」なんて、遠い夢物語のようにかんじていました。

 

 


そんなある日、喧嘩ばかりの二人がブランコにのって遊んでいたのを見つけ、私も一緒になってブランコをこいでみました。

 


ひさしぶりにこぐブランコは、疲れきった私のココロに心地良い風を送ってくれました。

 

 

「楽しい~!」と楽しそうにブランコをこぐ私。

それを見て一緒になってブランコを揺らす二人。

 

 

「あぁ~そっか~。もしかしたらこの子たちに”特別な何かをしてあげよう”としなくていいんじゃないだろうか。だってこの子たちは、他の子となんら変わらない5歳の子どもなんだもん。」

 

とふと感じたのです。

 

 

「ブランコ気持ちよかったね~♪」

という私に二人もニコニコ嬉しそう。

 

それからはブランコがお気に入りになり、私が2人と一緒に遊ぶ時間が増えました。

 

するとそこにクラスの女の子が来て

「先生、Sちゃんや~と、何しとる~?」と聞くので

 

 

「一緒にブランコ乗っとる~♪

楽しいね~Sちゃん♪」

 

「うん!」

 

「私もよして~、Sちゃん~♪」

 

といって数人がSちゃんと一緒に遊びだしたのです。

 

それまでの私は、

周りの子をなんとかこの子達と関わらせないと。

と思って必死になり、私自身もこの子たちに「特別な関わりをしてあげないと」と思っていました。

 

 

でも違うんだなぁ。

 

 

この子たちは「何かをしてもらう」ことなんか望んでない。

 

 

普通どおり、ほかの子と同じ。そう接してほしかったのかもしれない。

 

 

「してあげなきゃ」というおごった私の考えは、逆にこの子達を苦しめていたのではないか。

 

 

そこに気づいた私は、「してあげなきゃ」の気負いを捨て、自然体で3人に接することができるようになりました。

 

 

不思議なもので、そんな私の姿を見て周りの子達も自然に関わりだしました。

 

 

「遊んであげる」ではなく、「一緒に遊ぼう」

 

 

「してあげる」ではなく、「してみたら」と応援する。

 

 

そして当然、喧嘩もする。「先生~Sちゃん、こんなことした。Sちゃん、いけんだで!」

 

 

 

良いことも悪いこともみんな一緒です。

 

特別な何かなんかありません。

 

「してあげないと」いけない子なんていません。

 

一人ひとりの「できること」「やろうとすること」を応援する。それだけです。

 

 

3人に「してあげてる」気分でお世話をしていた子たちは、もしかすると「私はあなたよりできることがたくさんあるのよ」という優越感を抱いていたかもしれません。

 

 

そして何より私自身が、3人を「してあげなきゃ」目線で見てしまっていた。それがクラスのみんなに伝わっていたのだと思います。

 

 

 

子どもが小さいから。

 

 

まだ、できないから。

病気があるから。

 

色んな理由はあるけれど、

 

 

それぞれに「してみよう」「してみたい」の気持ちはあるはず。

 

 

それを勝手な思い込みで「出来ないはずだから」「してあげなきゃ」

 

 

って思うのは、大人のエゴかもしれない。

 

 

 

 

ゆっくりでもいい。

 

 

失敗してもいい。

 

 

一人ひとりの「やりたい」「やってみよう」を見守り応援する。

 

 

それが大人にできる精一杯のことかもしれないです。