あるてみすてんぷるの沙羅です。
「明珠在掌」という言葉があります。
これは「明珠掌に在り」という禅語です。
明珠とは宝石のことです。それが「掌に在り」ですから、
遠い所や手の届かないところにあるのではなく、
私たちの誰もが掌におさめているということになりますね。
『法華経』の中に、この禅語にまつわるお話があります。
ある貧しい男が、お金持ちの親友を訪ねます。
お金持ちの親友は貧しい友を憐れんで、心からもてなします。
貧しい男は美味しい料理やお酒に酔いつぶれ、その場に眠り込んでしまいます。
仕事のため出かけなければいけないお金持ちの男は、
別れの挨拶をするためにおこそうとしますが目を覚ましません。
お金持ちの男は仕方なく、貧しい男の着物の裏地に高価な宝石を縫い込んで
出かけていきます。しばらくたって目をさました貧しい男は、
このことに気付かずこれまでと同じように貧しい生活を続けていくのです。
そしてある日、貧しい男は金持ちの男に再会するのです。
貧しい身なりの友に驚いた友人は、宝石の在りかを伝えます。
その時初めて宝石を肌身に付けていたことに気付くのです。
さて、このお話は何を私たちに教えてくれているのでしょうか?^^
ここでの金持ちの男は仏様であり、貧しい人は迷える衆生です。
衆生とは私たちのことですね。
現世で迷える私たちは、掌の中にある光り輝く宝石に気付くことなく、
幸福を求めてさまよい歩いているのかもしれませんね^^
今ある幸せに気付きませんか。