あるてみすてんぷるの沙羅です。
黙示録3章20節に
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその中に入って彼と食事をし、彼もまたわたしと食事をするであろう。」という言葉が記されています。
この言葉は、神が無理やり私たちの人生に入ってくるのではなく、
戸を開けるかどうかを私たち自身に委ねていることを示しています。
多くの人は、「もっと状況が良くなったら」「心が調ったら」「自分が変わってから」と思いがちです。
けれど実際には、人生の気付きというものは完璧な時に来るのではなく、
今ここの小さなノックとして訪れているのかもしれません。
・誰かの何気ない一言
・胸に引っかかる出来事
・繰り返される問題
・ふとした違和感
・なぜか気になる言葉
それらは単なる偶然ではなく「気付いていますか?」という内側からのノックであることがあります。
しかし私たちは忙しさの中で、その音をかき消してしまいます。
スマホを見続けたり、予定を詰め込んだり、考え事で頭を埋めたり、感情を麻痺させることをします。
そうやって戸を開けない状態を続けていると、本来自分を導こうとしていた声が聞こえなくなっていきます。
この言葉で印象的なのはたたいているという点です。
神も、真理も、人生の本当の気付きも、強制しません。
ただ静かに、何度もノックしている。
だから大切なのは大きな奇跡を待つことより、小さなノックに気付ける感性を持つことなのでしょう。
たとえば、いつもイライラする相手がいるなら、その人は「自分の執着」に気付かせるためのノックかもしれません。
身体の不調が続くなら、生き方や無理の仕方を見直すためのノックかもしれません。
同じ失敗を繰り返すなら、考え方の癖を見つめるためのノックかもしれません。
人生には外からくる問題のように見えて、実は内側の扉を開くための出来事が数多くあります。
そして戸を開くとは、特別な宗教的行為だけを指すのではなく、「認める」「耳を傾ける」「逃げずに見る」「素直になる」
という日常の姿勢なのだと思います。
本当の変化は外側を無理に変えた時ではなく、内側の扉が少し開いた時に始まります。
今日あなたの人生をノックしているものは何でしょうか^^
静かに耳を澄ませてみるとそこには責める声ではなく、より良く生きるための導きがあるのかもしれません。








