「ブログ休みます」宣言したけど、どうしてもこれはリアルタイムで残しておきたくて書いちゃいます笑
7月、息子の試験当日、息子を送っていった後、一人でこの神社にお参りし、そのあとも何度か来ていたけど、昨日は旦那と二人でお参りしました。
昨日は曇りだったので、太陽の光とかは撮れなかったので鳥居だけ写真を撮りました。
先週、一つの試験結果(他県)がダメだったとわかり、
「〇〇の試験はダメだったけど、きっとこれにも意味があるんだよね」
と家族で励ましあい。
家族LINEに息子から「〇〇、ダメでした」と連絡が来て、私も旦那もショックで気の利いたこともいえずにいたら、娘が
「仙台に残りなさいってことじゃない」と返信していて。
息子もこれまで一生懸命頑張ってきたから、かなりショックだったようだったけど娘からのこの言葉で救われたと言っていました。
落ちたことはショックだったけど、どこかで私はそれでよかったのかもしれないと思っていました。
厳しい言い方しちゃうと、息子はどこか調子に乗っていたと思うから。
これまで受験とかであまり挫折らしいことなく(もちろん勉強はしてきたけど)スムーズに進学もできて、人の痛みや苦しみをあまりわかっていなかったと思っていたから。
人生には、うまくいくときもあるし、うまくいかないときもある。
人生は、思うようにいかないことだって山ほどある。
頑張っても報われないことだってある。
思い通りに行かないのが人生なのかもしれない。
そういうことを息子はわかる必要があるとどこかで思っていました。
これで一発合格したら、ますます調子に乗って天狗になっていたかもしれない。
息子の同級生で、大学入学の時に一浪した友達がいて、そのママ友がその時言っていたのを思い出しました。
「〇〇(その息子さん)は、天狗になっていたから落ちてよかったんだ」と。
その時息子は順調に大学に合格し、順風満帆な大学生活を送っていた感じで、その時、彼の苦しみをわかってあげられていないように私は感じました。
だから、今回、息子も、もちろん受かってほしいけど、どこかで「挫折を味わった方がいい」と思っていたのでした。
痛い目に合わないとわからないことがある。
人の気持ちや、人とのつながりとか、人の思いの大切さを、痛い目に合って初めて気づけることがある。
だから、落ちたことはショックだったし、落ち込んでいる息子を見るのも切なくはなったけど、魂の成長という意味では、「神様ありがとうございます」と思えました。
あとはここから息子がどういう風に進んでいくか。
自分で考え、自分の足で進んでいくしかないわけで。
これからの人生、いろんな挫折や苦しみがあったとき、やっぱり自分で乗り越えていかなくてはならないわけだから。
実際、その落ちた日、私が夜遅く帰ると「俺、~~しようと思うんだけどどう思う?」と次の道を考えて、アドバイスを求めてきたのでした。
今回の試験についてはどこかで息子は自信があったようだったから余計にショックだったみたいで、ご飯も喉を通らず、一日一人で考えていたんだなと思いました。
その時に、「あ、ちょっと息子変わったかな」と思ったのでした。
あと昨日旦那と話して思ったのは、これは息子に限っていうことじゃないんだなと。
息子に対して思うことは、自分自身にもあてはまることなんだと思いました。
「もっとこうしたらいいのに」
と息子に思うことは、きっと私へのメッセージでもある。
それは旦那にも言えることで、昨日は旦那と二人で、息子のことを話しながら「私たち自身も気づくべきことがあるんだよね」と。
傲慢になりすぎていないか、
調子に乗りすぎていないか、
人の気持ちを考えられているか、
自分のことしか考えていないのではないか、
視野がせまくなっていないか、
苦しい人の気持ちを考えられているか、
息子だけじゃなくて、親である私たちも内観し、内省する時なのかもしれないねって。
もう一つの合格発表はこれから。
なので、改めて旦那とお参りしてきたのですが、その道中、そんな話になり、気づかされたことが大きかったです。
ここで感じたのは「人事を尽くして天命を待つ」。
そしたら今朝、「〇〇、受かってた!」という夢を見ました。
本当は受験番号で発表なんだけど、夢の中では息子の名前が載っていて、なぜか息子の名前の隣に「NEW!」の文字が点滅していました。
夢と思わず、夢の中ですごく喜んでいた私だったのでした。
前回ダメだったところよりも難しい試験。
受かったら本当に奇跡なのかもしれないけれど、「人事を尽くして天命を待つ」のみ。
あと親としてできることは、やっぱり息子云々じゃなくて、息子を何とかしようとするんじゃなくて、もちろん息子から助けを求められたらアドバイスなり人生の先輩として言えることは助言するけれど、私たち親が、自分自身の内観だったり、内省、そして祈りだけなんだと思いました。
出会う人が写し鏡なのだとしたら、起こる出来事が写し鏡なのだとしたら、やっぱり見るべきは自分自身。
だから、息子を変えようとするより、親である自分たちが変わりなさい、というメッセージなのかもしれないなと思いました。
「生きていたら何とかなる」
「それだけが人生じゃない」