日を追うごとにコロナ感染が激増しているこの1週間。


ついに私の勤める所でも、陽性者や濃厚接触者が出始めて、身に迫っているのを感じます。


「オミクロンて、ただの風邪みたいなものなんでしょ?」


という風潮も強い気がしますが、自分にとってウィルスやワクチンがどう作用するかわからないのがコロナ。


出来る最大限の予防をしつつ、ストレスをかけない過ごし方が出来ると良いのかもしれませんね。



私はコロナの流行に関わらず、いつ死ぬかわからないといつも割と真剣に思っています。


明日も同じ日常がおそらくは来るだろうけど、来ないかもしれない、と。



それは大切な誰かを突然に失った経験があるからとか、そういうわけではなく、


『生きていること自体をいつも奇跡に感じているから』


この感覚が強いから。



コロナに罹ったら、死ぬかもしれないと真剣に考えています。


でも、怯えてはいません。


本当に死んでしまったら、残された3人の子供は悲しむだろうなぁと思います。


でも、その傷は癒えるし、彼らの人生という長〜い視点で見ると、幸不幸を超えた経験の一つでしかないのかなとも思います。


子供の成長を見届けたい気持ちがないわけではありません。


命が尽きても、子供の成長はいつでも見られることが理解できる今、そこにも執着が生まれません、、困ったものですね。^^;


でも、そこまで“死“に対する恐怖がないのか?と訊かれれば、それは少し違くて、


多分、、


生きているこの瞬間を捉える喜びの方が優っている。


この言葉の方がしっくりきます。



生と死を比べて何かをコントロールしたり、欲望が生まれたり、という世界には居ないのかもしれません。



シェイクスピアの死生観がわかる彼の名言。


人間、一度しか死ぬことはできない。

 

      命は神さまからの借りものだ】



人生の中で、一度しか死ねない。



私は思わずその裏側を思います。



一度きりの人生で、何度でも生きれる。


生きる姿勢を変えられるし、経験次第で“生“の感じ方が変わる事だってある、生き返る思いがする時もきっと何度だってある。


だからこそ、“借りもの“に感謝して、


今この瞬間の自分を感じて、そして大切にしたいと思わずにはいられない♪


皆さんの死生観は、どんなものですか♪






2021年の幕開けとともに、スピリチュアルな世界を重んじる人々の中では、『風の時代の到来』として、250年ぶりの時代改新を喜び讃える話題で持ちきりとなりました。


それは、その世界だけに留まらず、ニュースや一般の人々からも『風の時代』というフレーズが聞こえてくるほどで、それだけ多くの人が様変わりした新しい時代に希望や期待を求めているのだと思います。


風は、感じられるけれど目には見えないですよね。


それこそが、風の時代の光となるものです。


感じられるけど目には見えないもの、沢山あります。


心、気持ち、想い、人との繋がり、情報、香り、感覚。


風の時代の切り替わりと共に世界を激変させた『ウィルス』も目には見えません。


私たち地球に暮らすすべての人が、目に見えないウィルスに対して、溢れ返る情報に対して、自分が受け入れられると感じるものを淘汰していくことで、自分の平穏を保つことの大切さを依然として宇宙に問われている、そんな2年目の今。


『風の時代』と共に『スピリチュアル』とか『ととのえる』といったワードもよく聞かれるようになりましたね。


そこで、今日はあらためて、『スピリチュアル』について、今の私が感じること、いつもお客様にもしているお話をしようと思います。


先ずは、『スピリチュアル』をカテゴライズしない方が仲良くなれます。笑


「スピリチュアルなこと、好きだよね」とたまに言われますが、実は私の中では結構な違和感だったりします。


スピリチュアルは精神世界であって、精神世界は誰の内側にももれなく『存在している』ものだから。


好きか嫌いか、という範疇の話ではなくて、大切にしてるから、大切な人たちにもシェアしてる、そんな感じです。笑


風の時代の前の『地の時代』、この250年は特に戦争という勝ち負けがあったり、物質主義世界の確立と繁栄の時代だったために、現実世界に重きがありました。


人々は、物質的に豊かになることで心の豊かさが得られると信じて人々が頑張った時代。


でも、それよりずっと前の時代は現実世界に重なるようにして精神世界はちゃんと存在していたのです。


宗教や先人たちが作った教会や神社などを訪れれば一目瞭然かと思います。


その頃の人々は、自分たちの命は何ものかに生かされていることを知っていて、神々や自然の気配を感じながら生活が営まれるのが当たり前の時代。


時代の進化と共に人間が価値を置くウエイトが少しずつズレていって、今、一周回ってようやく大切なものに光が当たり始めている、光を見つけやすくなっている、というところまで来たということです。


スピリチュアルは、現実世界で生きながら、教育や様々な人生経験を経て、いつの間にか装着してきた色眼鏡を、「このメガネって本当に必要?何か見づらいから外しても良いんじゃない?」と一つ一つ吟味しながら視界をクリアにしていく作業そのものなんだと思ってます。


「あの人がこのメガネかけてるから、私もかけた方が良く見えるのかな」と感じてしまう罠に気づくことでもあります。


じゃあ、どうやったら気づけるの?といえば、自分の感覚を磨くこと、感覚を研ぎ澄ませる生き方をすることなのかなと思います。


自分の本当の思いに気づこうとすること、


それが、心地良いものでもそうでなくても受け容れるということ、


不安や恐れ(現実世界の自分)に流されそうであっても、それを眺めるもう一人の自分(精神世界の自分)を持つこと、


感覚を研ぎ澄ませるための『静寂』を、自分の内側に感じる時間を持つこと、


自分が充足するものを知っていること、


愛(感謝)を持てること、


身体が喜ぶ食生活が出来ていること、、


上げればキリがないですが、すべて『スピリチュアルな行い』です。


かつて、世界的大ベストセラーになった『神との対話』の中にあったセリフ。


【人生の目的はただ一つ、自分自身を生きること】


いつの間にか、社会に合わせた押し殺した自分を生きてしまっている人、


本当の自分の感情にフタをして、解放されない自分を生きてしまっている人、


役職、親、など、役割を生きるだけになって、自分自身と繋がっていない人。


自分自身を生きる時代、生きやすい時代が来てますよ♪


スピリチュアルが自分の外側にある異世界だと捉えている人がいたなら、是非、今日からは、『自分と常に共にある世界』だと捉え直してみて下さい。


心、感覚、感性、、


切っても切り離せないこれらを大切にするほどに、豊かさを感じられる世界はもう動き始めています😊









『悟ったあとは、どうなるのですか?


神様のような心を持ち、感情的になることなどなさそうですね』


などという質問やイメージの話を時折受けます。



言葉でシンプルに喩えるのは難しいですが、、


一言で言えば、平穏と静寂が漂います。



コントロールする必要がなくなるので、怒りやイラッとしたりすることが減るのかなと感じます。


他の視点が同時にあるからイラッとしづらいということもあるかなと思います🤔


ですが、元々のパーソナリティが強まる傾向はあるように感じます。


元々、豪快な人は更に豪快に、威厳のある人は益々威厳が広がる感じでしょうか。



そして、話は戻りますが、悟りを開いても、開きっぱなしと言う人は殆どいません。


この現実世界に生きている限り、肉体という融通のきかない乗り物に乗っているわけなので、何か感情を動かされることがあれば、個の感覚は直ぐに戻ります。


そして、感情的にもなります。


でも、その感情的になっている自分を側から眺めている自分も同時にいます。


その部分が、大きく異なる点でしょうか。


私も、昨日から久しぶりに感情を揺さぶられる出来事があり、少し滅入っている自分を感じます。


でも、それによって取り乱されたり、自分を見失う程のことはないし、怒りが湧いたり、不安に胸を締め付けられることはありません。


そんな程度でしょうか。。


そんな夜には、子供をぎゅーっと抱きしめて、寝息を合わせながら、静かに一緒に眠ります。


悪いことや、考えたくないことは浮かぶことは殆どありません。


浮かんでも、すぐに泡になって消えていきます。


そして、胸の中には愛しい思いだけが広がります。


こんな時、【個の私】が本当に大切にしたいものはより強く浮かび上がって、愛が溢れ出すのですね。


悟りが未知だと感じる人も、少し目を閉じて静かに内に意識を向ける時間を持つことで、いつの間にか心が少し落ち着いて、少し楽になっている、、ということはあると思います😌


感情に振り回されないようにするためにも、沸き起こる思考感情から離れてみようとする時間は必要なのでしょうね♪



自分のエネルギーをどのタイミングで、どのようなことに使うべきか、注ぐべきか、


いや、どのように使いたいのか、注ぎたいのか、という部分において、しなやかに選択できる人はどれだけいるだろう。


例えば、絶対に逃したくない電車を目の前にして、見るからに対等に話し合えないであろう人と衝突したとして。


自分の信念のために、その人に対して正しさを主張して乗りたい電車を逃すのか。


自分の大切な時間を守るために、冷静になって息をとり直して電車に乗るのか。


どちらが正解とかあるのだろうか。


きっと正解は自分の中にしかない。


自分の気持ちが何より大切だから。


でも、それを選んだのは自分以外の誰でもないわけで。


自分でそれを選んでおきながら、


「あなたのせいで、自分は乗らなければならない電車を逃して、貴重な時間を犠牲にしたんだ。


だから、自分を納得させてくれなくちゃ解決しないんだよ」


と何かを強要したりする。


自分の中の【正しさ】を武器にして、自分でも気づけていない、内側にある深い深い鬱憤という存在が、此処ぞと言わんばかりに表出する。


それを大きな大きな視点で眺めていると、、


まるで小さな子供が癇癪を起こしているかのように感じてしまう。


怒り狂うその存在は、あたかも高潔で真っ当な考えを主張して、


「制するなど、とんでもない。


ただ間違いは正されるべきだろう」と言う。



無条件な愛の眼差しで眺めてみたときに、


私はどうしたら良いのかわからない。


本当は、無条件の愛には【わからない】などないことはよく理解しているけれど。


毒々しさしか放たれないものを前に、強要通りに謝り、寄り添い、理解を示すべきなのかどうか。


それをして慰められるのは、純粋で傷ついた小さな子供のあなたなのか。


静かに寄り添えたとして、私は毒に染まることなく、息をし続けることはできるのだろうか。


ピンと張られた緊張の糸に触れるのは怖い。


でも、私が感じる怖さよりも、身体も思考も何もかも硬直させてその糸を張る本人の方が遥かに怖がっていたのだとしたら、、


私は、後退りせずに寄り添うべきなのか。


大切にしたいと思っているのに、負から逃げたい私がいる。


負の世界は誰でも持ってる。


でも、【個の私】が手を差し伸べたいのは、


負にいながらも、光を見ようとしている人。


「こんなところにいるんだから手を貸してくれたっていいじゃないか!」


というその強さに立ち向かうだけの強さを、私は持ち合わせていないのかもしれない。


そんなものも、まるっと包み込める本当の無条件の愛って、、


やっぱり真の強さだし、本当の意味での『制する力』なのだろうな。


消耗しきってしまう日もある。


また明日、無条件の愛を思い出そう。


自分の中の弱さを、ちゃんと見よう。









新しい年が明けて、最初の新月がやって参りました。


皆さま、いかがお過ごしですか❓


私はコロナぶりに故郷の地へ帰省することができて、胸がいっぱいになりました☺️



やっぱり、人生の色濃い時間を過ごした青春の地は何にも変えられない大切な場所ですね。


それにしても、静岡は良いところです。


富士山はいつも美しく聳え立ち、思い立てばいつでも山にも海にも行くことができます。


目に映る景色と肌で感じられる自然から受ける感覚。


これだけで、サクッと心身を整えることが叶ってしまうところ。


それが私の故郷なのだなー、と改めて思い知りました😌


自分の住む場所でも、それに変わる場所を見つけてみたい。


最近は、そんな気分です♪


さて、年初め、何をされましたか❓


私は初日の光が部屋に満ちる清々しい朝の時間に、曼荼羅塗り絵をしました。



贈る方のエネルギーの本質に繋がって、導かれるままに色を乗せていき、唯一無二のフラワーオブライフが完成します✨


リーディングは、『言葉』を通して癒しが与えられますが、フラワーオブライフの画は『色と形』の持つエネルギーによって癒しが与えられます✨


自分でフラワーオブライフを塗るという作業をするだけでも、瞑想している時と同じ脳波になるのだそうですよ☝️


いつか自分が勤める施設の子供たちとも取り組んでみたいことの一つです♪


今年も、自分のことも仕事のことも、『出来ないだろう、無理だろう』を脇へ置いて、リラックスしながら『やりたいこと』を緩やかに、朗らかに、表現していけたらいいなと思います😊


ヒーラーアンの活動としては、【無条件の愛のトリニティ】が奇跡的な広がりを見せていくのかもしれません。


マリアさまと縁の深い自分の魂が揺さぶられる程に、【無条件の愛】の波が溢れ出して、マリアさまと共に在る感覚がいつになくリアルなのです☦️


伝授を受けた後は、しばらく数年さざなみのようだったのに、です。


必然的に起きているこの奇跡を、日常の中にしっかりと受け止めて、今年も多くの方に癒しと気づきをお繋ぎできればと思います🌟


今年も全ての人が心からの充足を多く感じられる一年でありますように😌


本年もどうぞよろしくお願いいたします🌟