横浜・屏風浦の”森浅間神社”♡鎌倉幕府の陣所跡で源頼朝の請願にて創建!2019.3 | angel_green888☆blog

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今日(2019.3.25)、近くの(横浜)屏風浦の”森浅間神社”に参ってきました(#^.^#)♪
 
屏風ヶ浦(昔は屏風ヶ浦駅)という地名は、源頼朝が海に迫る山が屏風を立てたようだったからつけられたといわれているそうです。ただし、昔屛風ヶ浦とは、本牧から富岡町までの海岸一帯の総称(↓↓)。
 
子供いっぱいの狛犬が可愛いです♪↓
 
鎌倉幕府の陣所(陣屋、陣営、軍隊が陣を設けてしばらく駐在する所)の跡で、源頼朝の請願により富士山浅間大社から此花咲耶姫命の分霊を勧進し浅間神社を創建したのが、この森浅間神社の由来だそうです。つまり、房総半島へ渡る海路の要所であった森村に鎌倉幕府が陣屋を設けた際、海を一望できる「我沙羅山」山頂の当地に、(鎌倉 亀ヶ谷の)亀ヶ山福禅寺の(源氏の守り神の)不動明王を祀る権現堂の権現堂の幸蔵坊長慶比丘が1197年に源頼朝の請願にて富士山の神霊を祀ったのが起源だそう。また、鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王は攻められて鎌倉を脱して森村へ逃げて、1335年に薬師如来(→本尊に)を移したと。鎌倉幕府の最初と最後に関わる重要な神社だったようです!
 
Googleマップで案内された、汐見台の森浅間神社参道から歩きました(後で気が付いたら、神社の裏に行く近道もありそうでした)。
 
その汐見台から入った(つまり上から)ので、昔海岸だった段丘の中腹の下社に行かなかったようです。
 
こんな横浜の町の中の駅『屏風浦』のすぐ近く(徒歩5分)に、緑豊かな山にあり、びっくりです👀‼️
 
この日もお社は閉まっていましたが、社務所で聞く(留守番の方がいてお札やお守りを販売してくれるが、あまり知らない)と、15日とか、限られた日や、お祭りの日しか(宮司さんが来る)開けないそうです。FaceBook( https://ja-jp.facebook.com/mori.sengen.jinjya/ )があるので確認して行った方が良さそうです。
 
神社に行く途中の階段に『汐汲坂』と書いてありました。
 
古の時代、縄文時代、海水(潮)を組んで上がった坂だそうです。
 
この汐見台(今は団地)は縄文時代の古墳などの遺跡があったと最近見たので....納得です。
 
森浅間神社 
 所在地:神奈川県横浜市磯子区森二丁目16番7号
TEL045-753-1840
 
森浅間神社のFaceBook(←こちらで情報がget出来るので、見てから行った方がいいかも)
Wikipedia
房総半島へ渡る海路の要所であった森村に鎌倉幕府が陣屋を設けた際、海を一望できる「我沙羅山」山頂の当地に富士山の神霊を祀ったのが起源と伝えられる。鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王は鎌倉を脱して森村へ移り、建武2年(1335年)に薬師如来を当社の本地仏としてを安置した。それをもって創建という説もある。古くは「親王権現」と称し、江戸時代に富士講が盛んになると富士山同様に三方向から登山路が設けられて「武州小富士」と呼ばれた。明治41年(1908年)に周辺10社を合祀し、大正2年(1913年)には神饌幣帛料供進社に指定された。境内正面の南参道は屏風ヶ浦バイパスの下を通って200段近くある。別名を「潮汲坂」という。急斜面も含めた境内は11,874m2に及び、スダジイを中心とした広葉樹林になっている。神社に隣接して朝日不動滝があり、江戸時代は修験に利用されていた。現在は水量が減り、閉鎖されている…
 
 
<屏風浦という地名の由来>
 屏風浦という地名は、海に迫る山が屏風を立てたようだったからつけられたといわれているが、源頼朝の命名とも伝えられている。安政元年(1854)に軍艦7隻とともに再航したペリー一行は、この地が故国のミシシッピーの風光に似ていると海図に記載したとか。そのころの屏風浦とは、現在の中区本牧町から金沢区富岡町までの海岸一帯を総称した。
 慶応3年(1867)12月25日、品川沖で幕府対薩摩藩の戦いが起き、薩摩藩の三田藩邸焼き打ちで命からがら逃れた藩士たちが乗る船と、それを追いつめる幕府の船との息詰まる攻防戦。その光景を屏風浦から眺めていたのが、在留外国人だったという。(昔は屛風ヶ浦駅、元は屛風ヶ浦)
 
 
800余年の歴史を刻む、屏風ヶ浦源頼朝は海からの絶景を「屏風のようだ!」と絶賛したという。
  屏風ヶ浦という名前の元をたどれば、鎌倉時代に源頼朝が名付けたといわれ、その説を『屏風浦物語』では次のように記しています。 建久3(1192)年、源頼朝が鎌倉に幕府を開きましたが、当時、金沢は江戸湾に面した漁村で鎌倉との交流があり、頼朝もしばしば、金沢から富岡、杉田の沖を船で遊んだといわれています。 頼朝は、波静かな磯子の浜辺にそそり立つ断崖が、屏風を立てたように続く絶景を大変気に入り、家来に、「屏風のある浦(浦は陸地が入り込んで波の静かな所)に行きたい」と命じたことから「屏風ヶ浦」と呼ばれるようになりました。 東漸寺には鎌倉時代に刻まれた詩板に、山水の美観を「石塀」と詠んでいる詩が残されており、また江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎は『杉田村観梅記』にその美しさを錦屏風と表現、その頃から杉田梅林が関東一円の名勝となったのも、屏風ヶ浦の景観があったからといわれています。 安政元年(1854)に軍艦 7隻とともに再航したペリー一行は、この地が故国のミシシッピーの風光に似ていると海図に記載したとか。 そのころの屏風浦とは、現在の中区本牧町から金沢区富岡町までの海岸一帯を総称した。 慶応3年(1867)12月25日、品川沖で幕府対薩摩藩の戦いが起き、薩摩藩の三田藩邸焼き打ちで命からがら逃れた藩士たちが乗る船と、それを追いつめる幕府の船との息詰まる攻防戦。 その光景を屏風浦から眺めていたのが、在留外国人だったという 昭和2(1927)年、久良岐郡屏風浦村は横浜市に編入され、区割がしかれて磯子区森町、中原町、杉田町となり、地図上の地名からは「屏風浦」は消えてしまいました。 今、丘陵地には住宅が建ち並び、浦は昭和34(1959)年頃からの埋立てで、昔日の面影は全くないが、「屏風浦(屏風ヶ浦)」の名は、地域名、小学校名、駅名、道路名などに残されてる。
  森の海岸は、白幡が林立し敵軍を圧倒!磯子には源氏にまつわる話がいろいろありますが、その―つが「旗立石」。《屏風浦物語》(屏風浦小学校・創立50周年記念出版)によると「森の海岸から四、五百メートルの沖に円筒形の石がたくさんあった。これを村の人々は「旗立石」とよんでいた。武士がいくさに行くとき、武士特に足軽(身分のひくい兵隊)が一本ずつ旗をもって参加した。その旗が多ければ、それだけ武士か多いことになる。この旗立石が海の中にあったことから、考えられることは、海上から見たときに、ここに陣地があるのだという目印となったと思われる。また、もう一つ考えられることは、その頃は、武士の集団がいくつもあったことから、海から攻めてくる敵(例えば安房の里見軍)に対して旗をたくさん立て、こちらにはこんなに多くの兵力があるのだという、敵をいかく(驚かす)するものであったろう、ということ。」とその由来が興味深く記されています。戦争になると、敵味方が入り乱れての戦いとなりますが”旗印”というように味方の軍を見分けるのに重要な役目をしていたのです。当時この地域は源氏だったので、旗の色は白、森の海岸には多くの白旗が立てられ、さぞかし壮観なことだったでしょう。明治のころ、沖まで泳いだ時、海底をのぞくと旗竿を立てるのにちょうど良い穴の開いた臼のような大きな石がたくさん見えたそうです。旗立石のあったとされる場所は、今は埋め立てられて工場の敷地内になっていますが、「白旗」という名称は、山、神社、商店街、バス停などに残っています。旗立石は、屏風浦歴史資料館(屏風浦小学校内)や森浅間神社などに実物があります。
 
 
『屏風浦物語』
磯子の屏風浦小学校が2006年に創立50周年記念事業として『屏風浦物語』を新訂発行したとあります。 このページの黒枠で囲んだグレー地の小さな活字の記事をごらんください。
https://isomaga.com/topics/060513_byobu_50.htm
おそらく非売品でしょうが、まず同小学校にお問い合わせになるのが一番です。
 
 
全てタブレットで撮影しました。

 

 
汐見台の森浅間神社の入口 その1
 
汐見台の森浅間神社の入口 その2 ←ここから歩きました。
 
後でよくよく見たら、神社裏に行く近道がありそうです↑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
狛犬の子供が付いていて可愛い↑↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
猫の足あと さんから
https://tesshow.jp/yokohama/isogo/shrine_mori_sengen.html

…森三村(森公田村・森雑色村・森中原村)の鎮守社として崇敬され、明治6年には村社に列格、明治41年には無格社12社を下宮に合祀したといいます。…

新編武蔵風土記稿による

 森浅間神社の由緒(森公田村) 淺間社 除地、五畝歩、村の北の方山上にあり、社二間に二間半、我羅山の額を掛く、森三村の鎮守なり、松本村修験権現堂の持、故に本地薬師像は常に権現堂に安す、相傳ふ此の本地の金像は聖徳太子の御作にして、坐像長三寸七分守邦親王の守護佛なり、建武年中親王當社を造立して安置せられしと云、建武は親王薨御の後なれば年代誤あるべし、又寺傳に其後房州里見氏此邊亂妨の時、堂宇以下焼失せしと云、本社より北の方一丁餘を下りて石小祠あり、下淺間と號す、前に御手洗池と號して細流あり、此淺間山は海濱に張出たる高山にて眺望開け上總の嶂巒天際に連て波濤の如し、右に當ては冨ヶ岡の鼻張出し、夫より二里餘を隔て本牧の出崎突出し、又遥に富ヶ岡の先に張出したるは、相州三浦郡觀音寺走水の出崎にして、この山の眺望殊に美なり…

(新編武蔵風土記稿より)神奈川県神社誌による森浅間神社の由緒鎌倉将軍守邦親王が護持の薬師像を本地仏として建立されたと伝え、古くは蔵王権現とも称した。字古浜の山上に在って我砂羅山と称し、古来航海安全を翼って参詣する者多く、森三ヶ村の総鎮守であった。

明治六年村社に列し、同四十一年十月村内の無格社大神宮、御嶽大神、大神宮、八雲神社、稲荷社、八雲社、荒神社、白幡明神、荒神社、稲荷社の一〇社を合祀し、大正二年神饌幣帛料供進社に指定された。

(神奈川県神社誌より)境内掲示(写真↑)による森浅間神社の由緒

 森浅間神社の古は相州鎌倉扇ヶ谷に在り亀谷山権現堂福禅寺と号し建久八年己六月(一一九七年)権現堂開山幸蔵坊長慶比丘(姓藤原)右大将源頼朝卿の請に因り不動明王を奉じ天下泰平を祈る。当時鎌倉より北郷上野村峯天矢部野笹下を通じ對岸の上総下総方面への海路及び戦略上の要所である武州森村に幕府は陣屋を作るに当り当地我沙羅山山頂に霊峰富士より木花咲那姫命の分霊をうけ堂を建立した。 長慶以降権現堂福禅寺の法灯を継ぐ歴代住職はこの地に赴き各種祈願をなしたと言う。これが浅間神社の起りなり。鎌倉幕府最後の将軍守邦親王治世嘉暦三年(一三二八年)権現堂六代権僧都法印長円親王の御祈祷所として守本尊薬師仏像を賜り護持す。元弘三年(一三三三年)鎌倉に戦乱ありしときこの薬師仏像を奉じ親王は長円を伴い鎌倉を脱し森村に移り建武二年(一三三五年)五月二八日森浅間神社の本地仏として安置す。現在当社の御神体なり。この時を持って森浅間神社の創設とする説もあり長恵の時鎌倉を退転し森村に居住更に文禄年中(一五九二年〜一五九六年)十九代長観の時松本の里に移りし後も代々修験道職を持って当社に奉じ明治維新後は松本姓を名乗り神官職を護持し現在に至る。

森浅間神社(下宮)の由緒

 武蔵国久良岐郡屏風ヶ浦村森には、古い昔およそ一千二百年前の頃より「浅間神社・下浅間神社」がありました。村人たちは、崇神の念が厚く、江戸時代になると村内各所に多くの社が建立されました。 神明宮(天照大神)森五丁目五-六三 牛頭明神(素盞嗚尊)森二丁目一七 神明大神宮(天照大神)森二丁目四三一-一 稲荷神社(稲倉魂命)森二丁目一一-一二 荒神社(火産霊命)森五丁目十-四 御嶽宮(国常立命)森五丁目四-三 稲荷神社(稲倉魂命)森二丁目一八-四 荒神宮(火産霊命)森二丁目一三-一九 白幡大明神(源頼朝公)森三丁目七-三三 神明宮(天照大神)汐見台交番附近 子大明神(大国主命)屏風ヶ浦小北東下 右の十二の神社は、明治四十一年十月に浅間神社に合祀されました。 現在の浅間神社下宮の社は、神明大神宮の建物を移築再建したもので江戸時代に建築されたものと思われます。 境内にある左右一対の狛犬は、明治二十六年六月森村の有志が村人の安泰を祈願して建造したものであります。

 

 
歴史オタクの久良岐のよしさんによると、
 
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
歴史は非常に古く鎌倉時代、源氏の本拠地だった鎌倉市の亀ヶ谷(かめがやつ)と言う地区に在った亀ヶ山福禅寺と言う御寺に源氏の守り神(仏:当時は神道と仏教は融合していた)の不動明王を祀る権現堂が有りました。 …その権現堂の和尚様の幸蔵坊長慶比丘が建久8年(西暦1197年)に源頼朝公の請願により富士山浅間大社から此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと=素戔嗚命の奥さん)の分霊を勧進し浅間神社を創建したのが、この森浅間神社の由来です。 鎌倉時代末期には、新田義貞が鎌倉幕府に鎌倉市西側の稲村ケ崎から攻め込んできた際に、最後の鎌倉幕府将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が、この森浅間神社の在る旧久良岐郡森村に逃げて来られたそうです。 その際に薬師如来像も戦火に遭わないように守邦親王により森浅間神社に移され、此花咲耶姫命の御霊と共に以後御神体として御祀りする事に成ったそうです。
この崖上の丘一帯を久良岐(くらき)の丘と呼び、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が訪れた地域なんです。 そして、この崖直下の屏風ヶ浦の海は神社の神事に欠かせない海産物の海鼠(なまこ)や鮑(あわび)が豊富に獲れる恵まれた海だった事もあり佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国に分割される前の地域名)国の内乱、佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ)の乱の後に天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)となり、倉巣屯倉として古事記にも登場する場所でもあります。 古くからの景勝地で、豊かな漁村だった訳です。
この森浅間神社は… ずっと海岸が長い断崖絶壁に囲まれた久良岐の丘の、数少ない船着き場を設けれる地点で有ったので、鎌倉幕府の陣所も設置された訳です。その場所が現在の京浜急行屏風ヶ浦駅辺り「汐汲(しおく)み坂」と呼ばれる辺りで、この一帯は海面の高かった縄文時代も海に下りれる貴重な通行の要所だった様です。 その証に、汐汲み坂の上の汐見台地区には縄文~弥生時代の史跡や港南区最大の古墳等の史跡が大量に在りました。 もっとも例によって神奈川県と横浜市の教育委員会の必殺技「開発幇助の為の史跡不保護」がここでも炸裂し、港南区最大の古墳すら宅地化され破壊されて残っていませんが 
…京急屏風ヶ浦駅から丘に延びる緩やかな長い裾野が汐汲み坂です。 そして丘陵地帯以外の平地は全て昭和初期まで海でした。 この屏風ヶ浦湾でとれる海鼠は、明治時代まで清帝国向けの輸出用に干しナマコとして出荷され、品質の高さで有名だったそうです…
 
 
近くの気になる、磯子区の森の篁修寺と中原の熊野神社
 
篁修寺
横浜市磯子区森5-9-6
https://tesshow.jp/yokohama/isogo/temple_mori_koshu.html
臨済宗建長寺派寺院の篁修寺は、鳳林山と号します。篁修寺は、東漸寺第十一世光室和尚が永徳元年に(1381年)開創、篁修庵と称していたといいます。金澤觀音靈場の第29番です。
 
杉田の(磯子区)中原の熊野神社について
横浜市磯子区中原4-5-17
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
…そもそもは鎌倉市山崎に存在して源頼朝公から崇敬された山崎泉蔵院と言う由緒ある修験道の大寺院の熊野権現を祀った道場でした。 山崎と言うのは今も鎌倉市北鎌倉駅~大船駅近くにかけて地名も残る丘陵地帯の事です。 現在の磯子区の熊野神社の前身と成ったのは大霊山泉蔵院桐谷寺と言う修験道寺院です。 その大霊山泉蔵院桐谷寺の更に前身が、今の鎌倉市山崎に存在した山崎泉蔵院です。 源頼朝公が平家を倒して征夷大将軍に就任した際に、国と民百姓の安泰を祈願する為に鎌倉郡山崎の泉蔵院の大僧都真諦智覚法印と言う高僧に命じて、熊野三所権現から御神霊を勧進させて山崎泉蔵院の熊野権現を祀った道場を、この熊野神社の境内に開きました。…頼朝公が没すると、鎌倉幕府は内戦が頻発し、鎌倉山崎の泉蔵院は戦火を逃れて、磯子区中原の熊野神社の道場に寺院機能を移転しました。その時に同地が桐ケ谷と呼ばれた場所だった事から寺名を大霊山泉蔵院桐谷寺と改めました。しかし明治時代に成ると神仏分離令が発布され国策で当時の御住職は僧籍を返上し、桐谷寺は廃寺に成り熊野神社だけが残りました…