昨日は兵庫・生と死を考える会さんの研修会に友人と参加しました。
 
今回の『自死遺族支援のために』 講師を務めてくださったのは
龍谷大学文学部教授 
鍋島直樹氏です。

鍋島先生のご講義はJR西日本あんしん社会財団さん主催の
連続講座『いのち』を考える あなたにとって「いのち」とは
「東日本大震災の悲しみに届く光~行方不明の夫に宛てたラブレター」
その時のお話にも深い感銘を受けたことが思い出されます。
   
https://ameblo.jp/angeleyenooheya/entry-11996472046.html

          
昨日の研修会は、自死遺族の認知を広げるために
私たち自身が死について学ぶ機会としたい。
自殺予防の動きは国レベル、地方自治体レベルで行われていますが
生と死を考える会としても、市民活動としてのムーブメントを
起こしていきたいとの趣旨で開催されました。

内閣府がまとめた「自殺をめぐる現状」では
バブル崩壊後、不良債権処理の過程で効率重視となり
雇用形態の転換や消費者金融との関わりが増えて、
中小企業が追い詰められた結果、平成10年以降急激に増え
15年には自殺者が3万人を超えたこと…。
その原因は、健康・経済、生活・家庭問題など様々。
「原因は一つではなく重なっている」もので
男性は比較的、その時代の影響を受けているそうです。

国による「3つの基本認識」として

①自殺は追い込まれた末の死
②自殺は防ぐことができる
  友達・親族・医療者・カウンセラー・保健所・先生
  ボランティア等に相談する

③自殺を考えている人は悩みを抱え込みながらもサインを発している
  心配を掛けないようにと振る舞っているので
  案外家族には気づかれていないが
  不眠、心身の不調や、お酒の量等、気づけるサインがある

自殺が少ない地域では、地域の繋がりが強いそうで
心の悩みだけではなく、労務(仕事)・多重債務・健康など
気楽に多角的に相談が出来る場所が必要とされています。

昔は自害・自決などの言葉で表されていた、
自殺という言葉は、自分を殺すという文字になるので…
心に突き刺さるというご遺族のお気持ちを考えて
平成10年頃から自死という言葉を使用する様になったそうです。

「自殺は個人の問題なのか」


『人は一人では生きてはいないもので
 個人の問題であると同時に、社会の問題である』
 と

2012年に東北大学で
「臨床宗教師」が誕生。
2014年には龍谷大学でも研修が始まり
2016年に「日本臨床宗教師会」
日本臨床宗教師会が設立されました。
 
「臨床宗教師」とは、被災地や医療機関、
福祉施設などの公共空間で
死期が迫った患者さんやご遺族に対して
宗教や宗派にかかわらず
また布教伝道をすることもなく
心のケアを提供する宗教者であり
東日本大震災をきっかけとして設立されました。

先生がビハーラ僧として活動されている病院では
「死ぬための場所ではなく
 最期まで生きられるように最善を尽くす」 場所であり
「ぬくもり」と「おかげさま」のこころで接しておられます。

京都府北部で始まった、新たな自死遺族のための居場所では
京風Cafe de Monk「きょうのモンク」として、
女性僧侶さんの極楽ハンドマッサージで身体がほぐれたところで
専門家の方々による傾聴が行われています。

臨床宗教師だから相談に来たという方が多く来られ
悔い、自分を責める辛い気持ちを聞かせていただく。
「病気で亡くなったんです」というお言葉が発せられても
今その方が感じておられることを、そのまま受けとめる。

『何も出来なくても ここにいる Not doing,but being』ことが大切
クローバー

親鸞聖人の説かれた「死の迎え方の善し悪しを気にしなくてよい」
悲哀に満ちた死を、めでたき往生、自己のはからいを超えた、
如来のはからいによっての往生と受けとめること。


「現実にあった自死に対して、善悪をつけないで、
 一つの尊い死として受けとめる眼」
を持つこと。

鍋島先生がカナダのトロントでお会いになられた、
自殺学を樹立されたヨーク大学名誉教授、布施豊正先生は
48か国で自殺の調査を行い、数多くの自殺未遂者との面接で
「1000人以上の自殺未遂者と面接したことがあるが
「あの時死ねなくて無念だ」と言い切れる人にあったことはない…。

『自殺とは一時的な問題や悩みについて、
取り返しのつかない永久的な解決法をとる行為である』
との理解を示されています。 (布施豊正「自殺と文化」)

自死遺児が胸の内を綴られた文集「自殺って言えなかった」と
受け持たれていた学生さんから戴いた一通のお手紙を通じて
鍋島先生はとても大切なことを学ばれたそうです。


『どのような形であろうと、死は死でしかないのだ
 生も死も必ず全ての衆生に訪れるのだから
 生が美しく尊いように、死も悲しく尊い』
星

日本画家の平山郁夫氏がアフガニスタンから保護された、
仏像のお一つを先生がお持ちになられていて
写真で見せてくださった、そのお姿は半眼で慈悲深く
苦しんでおられる方に優しく寄り添っていらっしゃるように

私たちに
「くずかご」になっていただきたいと仰いました。
隅っこにあるけれど遠すぎない距離で、

「すべてを受けとめる」「逃げないで待つ」こと。
先生はお気に入りのプーさんのゴミ箱に
これまでにどれだけ支えられて来たか…!!と
感謝のお気持ちからお名前を付けられたそうです(笑)
そのことを力を込めて一生懸命にお話されるお姿と
お写真のプーさんゴミ箱の可愛らしさに会場が和みました
ドキドキ

講義の始めにも仰っておられましたが
浄土真宗の僧侶でもあられる鍋島先生は

「悲しみが光となりて」
悲しみこそが自分の人生の光となれる。
蓋をしたり閉じ込めたりするものではなく
愛情となって自身を包んでくれるもの。という
シスター高木慶子先生と同じ思いを持っていらっしゃいます。

泣きながら 御戸(みと)を開けば 御仏(みほとけ)は
たヾうち笑(え)みてわれを見そなわす
     (甲斐和里子著「草かご」二五六頁、百華苑)     


このように心に悩みをかかえている時には
誰かが深く聞いてくれること、深くこだましてくれることが
最も求められることではないでしょうか。
悲しいのはそれだけ、その人に愛情を感じているからでしょう。
悲しみはいつしか光となり、あなたを支えてくれます。
悲しみはそのままその人から受けた愛情となってきます。
まことの愛情はどんなに離れていても、目には見えなくても
今この心に満ちています。輝く大切なものは、
あなたのなかにきっと生きています。


鍋島先生のお言葉は心の奥深く魂に響きました
星
今回高木先生はお休みしておられましたが
先生がいつも会の終わりに仰ってくださるように
「皆様の幸せを思ってお祈りしております。」と
高木先生の口調を真似て仰ったご様子には
尊敬と愛情が込められていて微笑ましく感じました。

今の世の中はいろいろと苦しみや辛さが複雑化している様ですが…
誰かがそっと屑籠のように同じ空間にいることが出来れば
自死でもたらされる深い悲しみは少しずつでも減ってゆくことでしょう。
そういう社会へと変化して行くことを心から願っています
ラブラブ(*^_^*)