おはようございます。
ここ最近、夫の暴飲暴食に対して、私がとてもイヤな気分になっていたことをキッカケに、それについての自分の思いをノートに書いてみました。
すると、
私は、夫が暴飲暴食をする度に、病気になるのではないか?そのまま死んでしまうんではないか?
と恐怖感と不安な気持ちになっていることに気づきました。
さらに、私は、20年以上前ですが、お酒が大好きな父が、
心臓の病になり、手術をし一命は取り留めたものの、
64歳で亡くなったことが、
私の今のイヤな気分の元になっていることに気づきました。
さらに書いていくと、
私は、父の死はもう既に受け入れていましたが、
死に対する思いには触れずにいる事に気づいたのです。
私にとって、死とは、怖いものであり、良くないもの、ダメなものであるということ。(病気も含めて)
そんな思いがあるので、私の中では、長生き出来なかった父は可哀想で、父を失った母も可哀想な人としていたのです。
そうなると、私の両親は、いつまでも可哀想な人になってしまう。
そんな思い込みは、両親にとても失礼だし、寿命で幸せが決まってしまうことになる。
明らかにそんなはずはない!のだ。
そもそも幸せは、その人にしかわからないその人だけの感覚なのだから。
私は今ノートの書き方を学んでいて、教えて頂いている方にこのイヤな気分について相談をしたところ、
それは、死生観に繋がるのでは?
とのアドバイスを受けたので
その流れでそのままノートで
死生観に向き合うことに。。↓
これまでの私の見てきた死について考えると、
死とは、
人との別れ、
さみしさ、
悲しさ、
切なさ、苦しみ、
恐怖、孤独、暗闇
と、それは
重たくて向き合いたくないもの
に感じている。
しかし、どこかで、生も死も、同じく自然な流れの中のものである。
とも思っている。
私は、「死」とは、
肉体との離別であり、
この体の人として、感じることができる最後の瞬間である。と思う。
感じることの集大成である。
集大成とは[名](スル)多くのものを集めて、一つのまとまったものにすること。また、そのもの。集成。
よって、
死とは、
その瞬間に感じられる感覚の集成である。
それは、今ここで"今"を感じる感覚と同じであるということ。
死とは、
"今"であり、この肉体としての最後の"今"である。
良い悪い、正しい正しくない、ではなく、
生と同じく、私たちが生まれたことの不可解さと同じくらい不可解なものである。
と、
ノートに書く。
最初に戻り、夫の暴飲暴食に関して、
私は、暴飲暴食は体に悪いからダメ!、としていること
病気になることもダメなこと、
病気で死ぬことは可哀想でダメなこと、
苦しみをダメとしていること、
心配、不安、恐怖感をダメとしていること。
いろんなことに❌をつけていることに気がつきました😭
(もちろん、長生きして元気でいて欲しいし、
ずっと一緒に居たい気持ちは変わらないのですが。)
私たちは、この世界で感じることを目的として生まれてきた。
あの世では、肉体もなく、いつもフラットな状態だから、わざわざ、喜怒哀楽を感じる為にこの世界に遊びにきた。
(宇宙のことを学んでいくと、大方そう言われていて、私は、納得せざるを得ないことも体験してきたので、この考えのもとで書いています。)
そうなると、私が夫を心配する、不安に思うことさえも、私の感じたいことになる。
そう思ったら、すぐにそれやめる‼️
私が感じたいのは、それじゃない❗️
となった😊
夫の一件から、死生観に向き合う
ノートになった貴重な日でした。