おはようございます🕊️
前々回の削除した記事を 読んだ皆さんに
とても嫌な思いを
させてしまい すみませんでした、、
晒してしまったブロ友さんに対しても
辛い気持ちにさせてしまい、
本当に すみませんでした、、
ブロ友さんから されたことを晒しても
何かが解決するわけじゃないのに…
それに、言われた言葉一つひとつがすべて
自分を映す鏡だから 私にも
悪い部分があったはずだと気づきました、、
相手にされたこと そのものに
意識を注ぐと、
正体不明な 苛立ちに囚われすぎてしまう、、
相手の言葉の中にある
棘を 拾いやすい、、
それを感じすぎていたことで
普段から 相手に対して、
疑り深くなっていた言動を 自然に
相手との会話の中に
散りばめてしまっていたかもしれない、、
と感じました、、
悲しみは 人の心の中が 見えない為に、
相手が 日々耐えて、
ため込んできた 傷というものが
他者から 見えない、、
だから、相手がそれを吐き出す時
悪意が無くても 私が悪意ある言葉として
捉えやすい部分を 強調して
その棘を 拾ってしまいやすかったのです、、
自分を思い かけてくれた言葉は
きっと 私に変わって欲しくて
言ってくれた言葉の 真剣さが
私は、否定と捉え、
意地悪されたと 悪い方に
感じる方向へと
受け取ってしまったのかもしれません、、
相手は、自分の鏡だからこそ
自分から他者を見つめた時
私が 直さなければならない部分を
相手を見て 気づきなさい、と
教えていたとしたら
相手だけを晒して 悪者にするのはおかしい
それに気づかないままでは
私が書く詩だって、
きっと 誰の心にも響くことはない、、
私は小さな頃
自然の命に 語りかける子でした、
花や鳥達 よく木や昆虫動物に語りかけ
愛おしそうに 心の中で
地球の恵みに日々温かい光を感じていました
その中で いじめを体験して
人の痛みに触れた私は
人の痛みを知ったからこそ 詩を書く自分が
寄り添いたいと 学んだ痛みは、
傷ついた者達の心だけでなく
傷を生んだ者たちの心の内側に存在する
深い悲しみでした、、
今 自分の痛みについてだけを考える姿を見て
だけど「傷つけられた」の部分を
手放し、許す勇気が
私を成長させ これからの詩の作品の中にも
今まで以上の愛が、言葉一つひとつに
満ち溢れてゆくはずです。
きっと 神様が、
それを優しい眼差しで
見守ってくださるように思います。
私の叔母が クリスチャンで修道女なのは
きっと 偶然ではなく、
自我に飲まれず 周りに溢れている
気づきの声をしっかりと
聴くためなんじゃないかなって思うんです。
トラブルを書いた記事を投稿した次の日の
お昼頃に トラブルを知らないはずの
叔母からLINEがあり
「あなたの幸せを、
いつも神様に祈っているからね」とあり、
いつのまにか
私が本当に望むことの方向性が
かなり ぶれていたことに気づきました、
誰かにされたことを ブログで晒す行為は
自分の人生において、
無意味だったのかもしれない…と。
誰かを 叩くことより 大切なことを
私が 誤った道に進んでしまいそうだった為
もし、この思いを書いた記事を投稿しても
きっと、その方々がいる事が
だから、無理に この思いを
それに、ごめんなさいと