それぞれは閉じた世界にいながらも、きっぱりと考えをまとめる女と、あれこれ考えを巡らせても一点に結実しない男の二人が交わす14通の往復書簡から成る小説です。
なのに、女性の「私」が書いた一通めの書き出しはこんな文です。
これでは手紙を出しておきながら、のっけからこの先の意思疎通の拒絶を宣言しているようなものです。差出人本人がこの手紙を「一回表の攻撃を終わったところで、雨天、ノーゲーム」と例えているのですから。
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ところが、読み進めるにつれ、二人の思い出の回想や引き合いに出す世のたとえ話から、どうやら二人は互いに相手を大切に考えていることがわかってきます。
二人はどんな関係だったのか。なぜ今は離れ離れになったのか。書簡を交わして各々はどんな方向に進もうとしているのか。読み進むにつれ野次馬根性を超えた興味を深めていきました。最後の2通で、「私」と「ぼく」だけが共有する幾つかの秘密を読み手の私も共有し、呼吸を忘れて胸が苦しくなりました。
あとは切手を、一枚貼るだけ / 小川洋子・堀江敏幸 (中公文庫)
2019年刊、2022年文庫刊
お気にいりレベル★★★★☆
はじめの頃、それぞれ自分の考えを直截に伝えず、回想に手がかりを求めながら相手の現況や気持ちを探るような二人のやりとりに、もどかしさが募りました。
それでも「ぼく」は辛抱強く、「きみ」の手紙のエピソードから「水」や「船」、「暗闇」といった鍵から、互いの心のつながる水脈を見つけ、豊富な知見をうかがわせる史実を引いて「きみ」の興味をつなぎつづけて、途絶を回避します。
手紙のやりとりは続くものの、相手の気持ちを慮って、二人の別離の核心をつくような言葉を使うことを避けている上に、書簡の途中でに個人の回想や引用で一見脇道と思える方向に話が流れることも多く、「わたし」と「ぼく」の探り合いのペースに応じてしか、読み手の私も二人の過去を知ることできません。
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ドナルド・エヴァンズの描く架空の切手、
一文字しか知らない象の書く手紙、
『アンネの日記』に登場するフランス語教材『ニヴェルネの美女』、
ソ連時代に犬を乗せた宇宙船、
ヴァイオリンの中に仕込まれた魂柱、
宇宙線研究所で五万トンの超純水を蓄えた円柱形タンク、
二人にコンサートチケットを1枚くれた、独りでボートに乗っていた老女などなど・・・・・・
脇道のような偶然を積み重ねたエピソート群こそ、一緒に暮らした時期だけではなく、離れて暮らしている今でも二人が結びついている必然性を立証する手だてとなります。
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堀江敏幸と小川洋子は、本作を書くにあたり事前に決めたことは<女性と男性が手紙をやりとりをする〉形式にするの一点だけだったそうです。(文庫巻末の対談より)
互いの出方と少しずつ手探りで過去を築かざるをえない環境が、こうした手紙のやりとりを生んだのですね。
このブログの冒頭に書いた主人公の男女それぞれの特徴は、二人の著者のふだんの得意とする作風に通じるものがあります。
閉ざされた世界の屈託を掘り下げれば掘り下げるほど行き場を失いがちです。
今回、最後の一通となる十四通めで、堀江敏幸は「ぼく」にこんなことを語らせて、かろうじて閉塞状態からの脱出を試みています。
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