[本] 知らせるべきこと / 逃亡者 | そっとカカトを上げてみる ~ こっそり背伸びする横浜暮らし

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大きな挑戦なんてとてもとても。
夢や志がなくても
そっと挑む暮らしの中の小さな背伸び。
表紙の手ざわりていどの本の紹介も。

相互読者登録のご期待にはそいかねますのでご了承ください。

知らずにいたかった、聞かなきゃよかった、なんて思うことかあります。

片思いの異性に恋人がいたなんていうのは、個人にとって重大で悲しいですが、個人的なスケールです。

「言ってはいけない」(橘玲著)、「不都合な事実」(アル・ゴア著)といったタイトルを持つ書籍ともなると、扱うことが日本の社会とか、地球といった規模になります。

"知らなきゃよかった度"は、自分の将来にさす影の大きさと暗さに左右されます。

期待から外れることは、できれば見聞きしたくない、と思うのが心理的に多数派のようです。

逆にそういった類いの話をマスメディアで人々に伝えようとする人は、人々がどんな言動をとることを期待するのでしょう。


   ◆      ◆      ◆

この小説の主人公も、かつて人々が知りたがらないことを「戦争で稼ぐ人々」という本にしました。

それがいまでは、妙なものを託されたおかげで、命を狙われる身となってしまいました。

お気にいりレベル★★★★☆


山峰は古いトランペットを託されます。
それは「ファナティシズム(熱狂)」と呼ばれ、かつて太平洋戦争中、戦場でその音を聞くと兵士が鼓舞される、不思議な力を秘めています。

ドイツのケルンの山峰が滞在するアパートに、見知らぬ男が侵入し、トランペットを奪おうとします。

男が山峰に示した選択肢は3つ。

Ⅰ すぐに死ぬ
Ⅱ 呪われる:幸福になった時点で死ぬ
Ⅲ 生まれ変わり、最もなりたくない存在になる

山峰は何とか、部屋から逃げ、逃亡劇が始まります。

   ◆      ◆      ◆

スリリングな逃亡劇で貫かれるかと期待したら、意外な三部構成で展開されていました。

第一部は、「僕」山峰が逃亡者になるまでの経緯。
第二部は、「僕」の恋人アインと、彼女が書くはずだった二人を描く小説の僕の部=僕の歴史。
第三部は、トランペットを手に戦場に向かった「鈴木」の物語と、アインの書くはずだった小説の行方。

長崎の潜伏クリスチャンの歴史と、「僕」のつながり、アインとの接点。

歴史と表現していい長い時間の流れ。

アジアと日本を結ぶ地理的な広がり。

新旧の宗教、神、信仰と転向、人種差別、ネット上の攻撃、戦争、戦場での鮮烈な出来事、市民の意識、政権の維持、太刀打ちできそうもない理不尽な暴力、音楽、文学、歴史・・・・。

盛り込みすぎと言えるほど多様な要素が、500ページのストーリーに詰め込まれています。
三部の構成の内容 、どこかバランスが不安定です。

作者中村文則が意識的に作った、現代の課題の歪んだ姿そのものに思えます。


   ◆      ◆      ◆

果たして、山峰は逃げおおせたのでしょうか。

エピローグで、アインが書こうとしていた小説が刊行されたことがわかります。



エピローグの登場人物がとったと推定される行動や、僕と鈴木をつないだかもしれない血筋を持つ女性たちの愛情に、人間もすてたもんじゃないと思える希望の兆しが散りばめられています。




「僕」山峰とアイン、「鈴木」と恋人、歴史とつながる4人の男女から生まれた小説は、世に何を伝えようとしているのでしょう。

少なくとも人々が期待している物語ではなさそうです。


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