時代の先端は、衣食住、娯楽、科学技術、医療、スポーツ、芸術など挙げればきりがないほどさまざまな分野にあります。
先端というと尖った状態を連想します。数多の時代の先端もどこかとがっています。
この短篇集の登場人物のほとんどは、そんな時代の先端とは距離をおいて暮らしています。
その距離は、意識してとっている場合もあれば、気がついたら取り残されていたり、距離を縮めようとしたり、とその距離の受けとめ方は各様です。
そうした人々の方が世の中では多数派です。多数派の日常をただ書いても小説にはなりません。
この作者は、登場人物と先端との間の隙間の心情に事件の種を見出して、発芽させ、見事に実を結ばせました。
◆ ◆ ◆
返事はいらない (新潮文庫)
1991年刊、1994年文庫化
お気にいりレベル★★★★☆ |
30年近く前に書かれたこれらの6編が、磁気型のキャッシュカード、駅の伝言板、黒い固定電話など小道具に時代を感じさせながらも、いまだに読み手を惹きつけ続けているのは、先端との距離にまつわる意識の変数はその頃と変わっていないからです。
(私の読んだ平成25年版は54刷でした)
▼返事はいらない: 失恋してマンションの屋上で自殺を考えていた千賀子は、先客の老夫婦から自分たちの計画に一枚噛まないかと誘われます。「一枚噛む」と表現される目論見にろくな話はありません。
▼ドルシネアにようこそ: 速記の専門学校生伸治は、毎週金曜日六本木駅の伝言板に誰に宛てるともなく高級ディスコ「ドルシネアで待つ」と残します。ある日、その伝言に返事がきました。
▼言わずにおいて: 深夜、走ってきた車の運転手が聡美をみて「やっと見つけた」と叫んだ後、壁に激突して同乗の妻とともに死亡。聡美はその言葉がひっかかり、運転手の身辺を調べはじめます。
▼聞こえていますか: 勉は引っ越した先の家で夜中に幽霊を見ます。前の住人が残していった黒電話の中には盗聴器が仕掛けられていました。誰がどんな狙いで仕掛けたのでしょう。
▼裏切らないで: 歩道橋から転落して若い女性が亡くなりました。借金苦による自殺の見方が大勢を占めるなか、加賀美刑事は他殺の可能性にこだわります。その訳は?
▼私はついていない: 婚約指輪を借金の形にとられた従姉の逸美が、彼の親族との食事までに指輪を取り戻したいと「僕」に助けを求めてきました。さて「僕」の考えた策は?
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殺人、自殺、窃盗、詐欺、債務の返済不履行、狂言誘拐、嘘などの事件自体には殺伐としたものです。
その事件の周辺のどこにどんな体温と血流を感じるかが、読み手が待ち望んでいるポイントです。
単に事件やそれを追い続ける背景が、特殊でありながらも同情とは別の、幾分かの共感の余地に私は見事に捕らえられました。
犯人、共犯者、捜査する刑事、捜査の協力者、登場人物の両親など、さまざまな立場で登場する人たちのきわめて個人的な思いを、作者はさりげなく見えるように両掌ですくいます。
よんでいて、おっ、こんなところでこんな人に、と温かなものを感じさせる、作者の視点と表す技量が冴えています。
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