彼岸もすぎ、私の住む横浜あたりでは桜の開花が話題となる時季を迎えました。
休日と、満開予想と、天気予報を見比べながら花見の目論む方もたくさんいるでしょう。
飲み食い付きかどうかは別としても、
満開の花を楽しむ企てには大小にかかわらず春を待ったぶんだけ胸が躍ります。
そんな季節に私の脳裏には、
一枚の桜の花びらを愛でようすとる娘さんの姿が浮かびます。
ある本で知った、いまから50年以上前の情景です。
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亡き娘坂本きよ子さんにまつわる、母親トキノさんのその話は、
著者にお願いする読者へのこんなことづてで結ばれます。
「桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に」 「花の文を」『花びら供養』(石牟礼道子)
この母親のことづての前に、
水俣病で体の自由が利かない娘さんが
庭の1枚の花びらを拾おうとしてもままならない姿が、
お国言葉で生々しく回想されています。(本ブログ末尾ご参照)
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自らも水俣病を患った母親トキノさんのその言葉には、
娘きよ子さんを思う情愛はもとより、彼女の存在と苦悩の体験を風化させまいとする気持ちがうかがわれます。
公害の原因を作り・対応を放置した企業や国に対する怒りや恨みがあるはずです。
本に著されている限りではそれが著者への願いの場面での言葉にはありませんでした。
それどころか、
娘がつまめずに痛めた桜の花びらに同情を寄せています。
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地面に散った花びらをつまもうとすると、
思いのほかうまくいかないものです。
薄く繊細な花びらは、指先でつまもうとするとすぐ傷ついてしまいます。
障害で指先の反ったきよ子さんは、さぞかし苦労したことでしょう。
きよ子さん自身は庭の桜を前に花びらを手にできず、どんな思いだったのでしょう。
母トキノさんに花びらを1枚手のひらに乗せてもらえたのでしょか。
悔しさや悲しさと、桜の美しさに惹かれる気持ちと、どちらがまさったのでしょう。母娘で異なる思いだったかもしれません。

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これがトキノさんが著者に伝えた娘きよ子さんのようすです。
「きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも苦しゅうて。
それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に、私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃだして、
『おかしゃん、はなば』ちゅうて、花びらば指すとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みを言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。」
「花の文を」『花びら供養』(石牟礼道子)
花びら供養 / 石牟礼道子(平凡社)
2013年刊
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