夏というか、梅雨の季節が近づいているような気候ですね!
今週は曇りか小雨の日々のようですが...
今、国会の衆議院 厚生労働委員会では「児童福祉法改正案」等の審議が行われているようです。
でも最終的に改正された条文読んだだけでは、今までの報道で専門家や議員さん達の意見がどう反映されたのかもわからないし、それがどのように地域の行政そして子どもの支援まで降りてくるのかわからないので、全社協・全養協・専門家さんのわかりやすく解説してくれるのを待ちたいですね。
話はガラッと変わりますが、冬の間、自室のいろいろなファイルや資料等のペーパー類の断捨離をしていたところ、元職場に採用された時に渡された資料を発見しました。
たぶん新任研修で渡された資料で、新卒さん向けの基本的な内容のものでした。
私は自分で購入した書籍等以外、職場で渡されたものは基本的に自宅には持ち帰らない主義で、給与明細ぐらいしか持ち帰らず、ほとんどの物は職場に置いていました。
私の新任研修は副園長からでしたので(数時間)、持ち帰って読んでそのまま職場に持っていくのを忘れていたのだと思われます。
職場には何冊も置いてあったので、ちゃっかり1冊職場の自分用ファイルに後で入れておきました(笑)
その新任研修で、全く違う業界からの中途採用で、さらに宗教(宗教系の施設でした)のことも知らない私に、副園長先生から話してもらった資料の1ページ目です。
これだけは覚えていました。
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聖書のことば
善きサマリア人のたとえ
(ルカ福音書 10~25~37)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエススを試そうとして尋ねた。
「先生、何をしたら、永遠の生命がいただけるでしょうか。」イエススが、「律法にはなんと書いてあるか。それをどう理解しているか」と問い返すと、彼は答えた、「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、お前の神である主を愛せよ、また、隣人を自分のように愛せよ』とあります。」
イエススは言った。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば生命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねた。そこで、イエススは次の話をした。「ある人がエルサレムからイエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見てあわれに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてやった。それから、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してやってください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は答えた。「その人を助けた人です。」そこでイエススは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言った。
●福祉の基本は「愛」(知性的愛で情緒的愛ではない)
●法理論ではない
●思いやりがあるかどうか? それが福祉の原点
●そして、隣人になるための 実力があるか?
財力があるか?
このような内容でした。
この話はキリスト教の隣人愛の話で有名なものですが、律法の専門家や祭司やレビ人はサマリヤ人より上位の階級に属する人間です。
イエスス(キリスト)が言いたいことは、サマリア人が行った行動が「永遠の生命」をもらえることになるので、階級等は関係なく、「隣人を愛せ」という事なのだと思います。
そして最後に書いてある「●そして、隣人になるための 実力があるか?財力があるか?」
これが施設職員にとって大事な事だと教わった気がします。
サマリア人は傷の手当てをし、宿泊場で介抱し、さらに宿屋の主人に介抱を頼むお金を渡し、足りなければ帰りにまた払うと言ってます。
つまりは福祉の原点は愛や思いやりですが、職業として福祉に携わるのであれば、
傷の手当や介抱が出来る「実力」と宿屋の主人に介抱をお願いをするお金「財力」が必要である。
という意味だと思います。
施設としても「実力」のある職員と十分な支援を行える「財力」がなければならない。
と思いました。
もう二十数年前の話ですが、現在、社会的養護に携わる、もしくは関心のある方々が、このBlogの内容を読んで、どのように感じるのでしょうか?
そんな事をなんか知りたい気分で今回は長々と書いてみました。
では、またね~