今朝のショックで「がっくり」の話を、差し込んでしまったが…


荒城温泉は大野郡の中の丹生川村に位置する。
丹生川村と言うと『両面宿儺(りょうめんすくな)』の伝説の里である。

今では、漫画(呪術廻戦)の中でも取り上げられ、若い人にもフアンが多い。

とは言え、私には円空の彫ったこんなイメージが強い。
千光寺所蔵↓

伝説(日本書紀)では、仁徳天皇65年の条に両面宿儺が登場する。

六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其爲人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之

(現代語訳)

六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷(けいしょう)で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命(すめらみこと)に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣(わにうじ)の祖、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わしてこれを誅した。


仁徳天皇65年とは、西暦377年あたりの頃となる。

垂仁天皇の頃に越中では「阿彦の乱」か起こっている。垂仁天皇はさらに300年程古く、紀元前69年から紀元70年頃と想定されている。

いずれも大和朝廷の勢力拡大に伴う土豪勢力の首領だったのだろう。阿彦も凶賊とされ朝廷から遣わされた大若子命により誅伐されている。大若子命はやがて大旗主命と呼ばれ、伊勢神宮外宮の神官家となり、難波根武振熊はやがて和珥氏と呼ばれ、蘇我氏の台頭まで朝廷の側近く仕えていた。

大和朝廷にとっての敵は、「バケモノ」扱いされていたようだ。とは言っても、宿儺の「儺」は「疫病や邪気を払う」の意味を有する字を当てている。恐ろしい相手ではあったが、敬意も感じていたのだろう。

実際、飛騨では仏の化現とも受けとめられ伝わっている。


このサイトは詳しく調べているので、参考になります。↓


前回は荒城郡に焦点を当てたが、温泉にあった隣の大野郡の丹生川村(にゅうかわむら)に光を当てると、まずは両面宿儺の伝説の地であることを想い出す。

そもそも『にゅうかわ』と言う呼び名。かわっていないだろうか?複数の説が有るが、多くの方がこの説を採る人が多い。

私には、束ねた稲藁を円筒形に積み上げたものを『にゅう』と呼んでいたので、そちらの方からも考えられないかなぁとも想っている。アイヌ語でも採った魚を保存のために積み上げたものを『にゅう』と呼んでいたとも聞くので、縄文からの言葉が形を変えて伝わっているのかもと…


全国的に様々に呼ばれているが、こちらでは『にゅう』とか『にょう』(長野)と呼ばれていた。コンバインが使われるとともに、この姿も言葉も消えてしまったけど…(東日本にこの言葉が多い)

おまけ
高山市と合併する際に、消え去る丹生川村の痕跡を遺そうと発行された小誌にあったもの↓
この温泉は本来、荒城川の側に在り、かつては荒木郡に所属していたのだろう…。ただ、明治の時代に丹生川村に編入されたようだ。実際、高山から千光寺を通り来る道が立派になっており、カーナビもその道を案内した。それは丹生川経由ルートと言えよう。

一方、国府から荒城神社を経由し温泉へ辿り着く道は、国土地理院の地図でないと、ネット地図はなかなか表示してくれない。

🔴が荒城温泉。黄色の線に道が有るのだが、なかなか拡大しないと出てこない。行きはカーナビを頼ったので、随分遠回りさせられた。


参考(前回記事)