今日は、早朝、風の弱い時を狙い除草剤を撒く。その後、旧丹生川町にある荒城温泉恵比寿之湯に行ってきた。

かねてより知ってはいたが、奥飛騨とは方角がずれ、行けないでいた。湯の管理組合が運営しているダムの堰堤下にひっそりと佇む湯だった。

休憩所の壁に貼られていたのだが、昔に書かれた記事。
撮影不可の湯室の様子も描かれている。

温泉分析書も貼られており

多量のカルシウムが含有されており、浴槽や床に貼り付いた結晶の層も、さもありなんと感じた。

壁面には、こんな張り紙もあり、地元の人々が運営する手作り感を暖かく感じた。

駐車場には全国からの沢山の県外ナンバーが並び、3つある湯舟も常に沢山の人が浸かっていた。

湯質はとても良く、沢山のファンが居るのもうなづける。

本物の温泉は、こうだよなぁ〜、と思う。


それはさておき…こんな山の中に、芸術品が並んでいた。


最初、こんなとこに人が集まり…なんだろう?
スキーで畔を滑り降りるのかなぁ?なんて考えてたのだが…

近づくと、これ全部案山子なのだ。



これ、もう、芸術品。

防獣ネットの前にあり、イノシシよけのための案山子何だと思う。しかし、ホント生きてるようだった。(遠目には)


帰りに荒城神社に寄る。

延喜式内神社で、縄文遺跡もこの地で発掘されており、太古からの息吹がこの地では繋がり続けている。




飛騨国の式内社の一覧がこれである。
荒城神社は荒城郡の2番手に名が上がる。
筆頭の大津神社とは飛騨市神岡町に在る神社である。

ちなみに越中との国境を飛騨側に越えると先ず荒城郡が



次に大野郡が続く。



ちなみに荒城郡が吉城郡へと呼び名が変わったのは戦国時代。「荒」は好字に変えられたのだ。大化の改新、戦国時代、秀吉の配下に入った頃のようだ。他国へ侵略を抱えた時代…戦国時代と明治維新。思い上がりの狂気時代なのかもしれない。他者・過去を否定し、我が想いのみが正しいと突き進んだ時代だ。


私には、開墾の苦労を伝える想いが「アラキ」と呼んだような気がするのだが…。


余談

越前(福井)の地にも大野郡がある。しかも並んでいるとさえ言える位置に。岐阜県に残る大野郡(緑)の左下の正方形様の地がそうであり、明治に他郡に編入された地を考えると連続していたように見える。



大野郡は一つの生きた地域だったのではないだろうか、

太古には。


温泉の話から、こんなところにまで話が飛んできてしまった。まとまらず、相すいません。




なお、荒城の名を残していてくれたのは、川の名(荒城川)と神社の名(荒城神社)だった。先の温泉はその心を繋いでいてくれる。誇りに想ってくれている。

フト秀吉手先の金森長近へのResistanceの現れなのかも…。