3月頃、こんな図(↓)を載せたことがあった。
(その際の記事は末尾にリンクを置いておく。)

「医王山東薬寺の歴史」と言う本↓の中にあった。

先の地図上では右上に枠に囲ってある寺だ。その寺をスタートに反時計周りで寺を辿ってみよう。
1医王山東薬寺、2観音寺、3大福寺、4浄土寺、5万願寺、6船峅山帝龍寺、7法雲寺、8山平(「さんでら」と呼ぶ)

この図は『小佐波御前山周辺の古代宗教信仰遺跡と主要ルート』と題され、各寺院と城跡を結んでいる。
ここに書かれる寺は全て真言宗の寺である。



1医王山東薬寺
この寺は、701年行基が開山したと言われる真言宗寺院。先の本にも書かれているが、何度も途絶え、今は不動明王を祀っており、元々の寺ではない。
東薬寺は701年行基によって薬師如来を本尊として開創されたと伝えられ、南北朝時代に越中守護・桃井直常によって再興され、大伽藍を誇る大寺であったといわれている。その後、戦国時代に上杉勢の兵火により焼失したといわれている。江戸時代中期に再興され、いつしか本尊は不動明王となり、牧野不動尊と呼ばれるようになった。

2観音寺
この寺自体は上杉謙信により燃やされ、途絶えてしまった。昭和30年頃までは集落名として遺されていたが、福沢村が大山町と合併した際に集落名は消えてしまった。ただ、新しい地名は「1区」と名付けられ、この寺のあった地域(東福沢村)がかつての中心だったのかもしれない。山号などはわかっていない。

3大福寺
この寺は「2区」にあり、現在の福沢地区公民館の近くにある。県内の多くの寺がそうであるように浄土真宗に改宗し、現在も残っている。旧地名は「渕の上」とか「本常寺」集落だった。(本常寺と言う寺が合ったのかもしれないが、今はわからない。)

4浄土寺
この寺も上杉謙信に燃やされ、大山町と合併するまでは地名に残るのみであった。今は5区と呼ばれている。浄土寺の名は水位観測所に遺されていた。
左の川は熊野川でその水位を測っている。
水位観測所を背中にすれば船峅台地へ上る道が見える。あの先に万願寺集落がある。

5万願寺
この寺も上杉謙信に燃やされた、当時は相崎村だったのだが、寺名を地名として今に残っている。船峅村と大沢野町の合併の際も万願寺の名は残された。

6船峅山帝龍寺
この寺は702年文武天皇の御連子真福により建立されたと伝わる。このため『帝立寺』と呼ばれたが、この寺の僧が池原に棲む龍退治した伝説により『退龍寺』にその後『帝龍寺』と変わり今につながる。
この寺は七堂伽藍360坊あったが応永期(1394~1428)に燃やされ今は2坊のみとなった。先の本の図は、この寺を中心にこの輪は結ばれている。

7法雲寺
この寺は畠山重忠の菩提寺として建立されたが、法華宗の上行寺に乗っ取られてしまい、無くなってしまった。

8山平(「さんでら」と呼ぶ)
ここにも真言宗寺院があったのだろう。山平の地名はもはや消え、今生津(いもづ)集落の人々が山平(さんでら)の森を守る活動を行っている。

ホントに上杉謙信はよく燃やしてくれた。
ここには書かなかったが、今は文殊寺と呼ばれる地区も謙信は燃やし、立山信仰の常願寺川左岸ルートが(文殊寺~本宮)は次に続く前田家の政策も絡み、絶えてしまった。今は岩峅~芦峅ルートのみが取り上げられる。

ホンマに行く先、行く先、片っ端に灰燼にしてきた。再起が出来ていない所をみると、建物だけじゃ無かったのかも。簡単に言うと、根絶やしを旨としてたのかもね…。(僕からはとてもじゃないが『義』の人ではない。毘沙門天だと浮かれた狂人。)

結果的に今回は真言宗の寺々を見てきたことになる。前回は街道からの利益を押さえようと寺院建立を進めた曹洞宗の進展具合を見ていた気がする。
やがて、蓮如などの北陸巡行に伴い、浄土真宗への改宗が一気に進む。ほとんどは真言宗など古い宗派からだ。かたや法華系統の手の延ばし方も楡原で見てきた。これはこれで、ほとんどイジメと…なかなかエゲツナイ。
各宗派、それぞれなかなかエグいのかも。

最初の図をマップの上に置いてみた。
・1,3,6以外は概ねここら辺と言うことになる。(1東薬寺、6帝龍寺も現在位置とは言えない。)
・特に7は創建時位置と2番目上行寺に乗っ取られる迄の位置の2ヶ所マーキングした。



今回は『東薬寺の歴史』にあった図から寺を中心に辿ってみた。


参考

 瑞泉寺から大淵寺…



 禅宗の寺を追ってみた。(瑞泉寺)







余談
もう一度この図↓
帝龍寺の下に舟倉御前山とあり、その右にハチマキ山とある。そこに古代遺物出土地のマークと神社記号が書いてある。ここに(元)雄山神社が在ったと言う。
山岳信仰の対象が立山などの高山ではなく、魂の集う場所が身近な山だった頃の社跡だったのかも。
岩峅も芦峅も船峅と同じ『峅』の字を使う。この字は帝龍寺の山号『船峅山(べんせんさん)』から来たのかも。『ふなくら』と呼ばれていた地にこの漢字を作ってあてたのではと。

青点がハチマキ山と想われる場所。
緑点は帝龍寺の現在地。


補足
万願寺は元々『満願寺』だったそうだ。
『満』から『万』へ替えたのは、何があったのだろう?