布市から飛騨に向かう飛州道に臨み、下寺30ヶを従えた瑞泉寺は、永禄年間に上杉謙信により焼失してしまった。
船峅にあった万願寺も同時期に謙信に燃やされ、今では地名にだけ、その存在を残している。
同じく、寺家の寺々も燃やされ、今は帝龍寺と歓喜寺の2ヶ寺が今に残る。かつては360坊を数え船峅寺郷として、荘園にもならず独立していた。
750年の積み上げを全て、上杉謙信は灰燼に帰したのだ。
毘沙門天の生まれ変わりを名乗る上杉謙信。
僕にはビンラディンやポル・ポトに見えてしまう。
(スターリン、毛沢東と言っても良い)
悪魔の化身と言えるのかも。
彼はまた、舟倉台地を降りた林崎に在った禅宗の大寺『瑞泉寺』も燃やしたのだ。
舟倉用水の完成した頃、つまり、平和の中で地域開発に望める時代になって、漸く瑞泉寺は、再び動き出した。
文政年中(1830)に至って、加賀藩曹洞宗触頭宝円寺(現石川県金沢市)の前住職活翁達禅(二七世)が寓居し、由緒ある瑞泉寺再興の志をたて、天保五年(1834)に願出たことから、翌六年に田地などの寄進を受け、新川郡花崎村(現大山町)に移転のうえ再興された。
そうなのだ。場所を移し、再建を目指した。
今日は、その花崎村に在ったという場所を探した。
しかし、再出発の30年余り後に
次のビンラディンがやってくる。
次のラディンは、明治維新。
明治三年(1870)富山藩の合寺令により光厳寺に合併され、同五年に解寺により富山辰巳町に移っている。後、さらに現在地に移転した。
現在地とは呉羽山山中の展望台の下だ。今まで、足下に寺が在るなんて、林しか目に入っていなかった。今度行ったら探してみよう。
再興を決意した「活翁達禅」はどんな想いで
この移り変わりを眺めたろう。
その廃仏毀釈の流れの中で、今日こんな記事が北日本新聞に在った。
芦峅にあった寺々が破却された時、隠された『おんば様』が見つかった。河原で燃やされたものが多かったのだろうが、住民たちによって隠されたものだろう。
楡原の法華宗上行寺の場合もそうだが、乗っ取られた真言宗法雲院の仏具は住民により、集められ隠された。
法華宗もまた、ラディンに似ている。自分のみ正しく、そうじゃないものは、壊されるか捨てられる。
だからだろう他の地域からは『ダラボッケ』と呼んでしまう。ダラボッケとは『馬鹿法華』と言うことだ。しかし、そうではないだろう。集め隠した人々が確かに居るのだ。
日本ってこんな感じが多い。
安倍氏は自分が正しいと思い込んでる分、今まで皆で積み上げてきたことも平気で壊してしまう。
その信念が強い程、尻尾振りの犬も元気を出す。
積み上げては、壊す。
積み上げては、壊す。
賽の河原の住人なのだろうか、私達は。