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抽象化された、人間に課せられた単調反復こそ、考えに値する基本的な思想ではないだろうか? 世界をどうするかよりも世界(人間)は何によりできているか。認識論と量子力学、シャノンの情報理論、エントロピー、量子エンタグルメントからの時空の創発。組織論も国家論も革命話もそれからだ。

 大衆に浸透しない思想なるものがいかほどのものなのか?私を含めて、たくさんの愚者が突き動かされ、なにごとかが心のうちに残るものでなければ、それはその人の単なる好み(例えば破壊願望)から始まり、そうして生きてきたことの延々たる自己弁護にすぎなくなる可能性があるのでは?

 愚者なる多数のフィルターを通してこそ、思い込みや自己弁護じゃなくなる。大多数の立場に自分が置かれたとき、同じ主張が言えるかどうか、そうした反転可能性のフィルターしか、事の成否はわからないのではないか?思想も含めその真偽などありはしないのだから。

 なぜアナキズムなのか?なぜわれわれの一部はアナキズムに至るのか?人間は本来が保守的であり、既存のものに拠り所を求めるのが自然ではないのか?理想とは人間の賢しらではないのか?世の中に実体はなく関係性だけが真実としたら、関係性をも破壊するアナキズムの根拠はどこに求めるのか?

 個人の特殊性から立ち上がり、しかもそれに対してさえ懐疑に至る精神の行程がなければ、ほんとうの批判精神ではないと思われる。それがなければ歴史は超えられないだろう。なぜなら、すべての思想は感覚の担保が必要であり、個人対個人で流れていくのではないか?

軌道工 22

  振り返ると、いつの間にか複数の痩せ細った影が軌道の上に長く伸びていました。二本のレールを繫ぎとめている私たちが交換した枕木は、ちりも積もれば山となるで、その上り勾配へ伏せた長大な梯子のようにも見えました。それはもしかしたら、自らが苦労して下界へ掛けた長い架け橋だったのかもしれません。

 軌道を取り囲み、夕闇に消えていく緩やかな杉林の下り傾斜が、非日常から日常へ私たちを強く導いていくようでした。一緒のあやうい影も、その枕木である梯子の踏み板に導かれてつかず離れず、山の峠からここまで下ってきたのです。

 不思議なことに、ふたたび作業を始めて残った路線のタンパ撞きに戻れば、この身を削られるような夕闇迫る寂寥の中にあっても、私といえば、目の前の終わりのない軌道の上をどこまでも、そしていつまで影たちとともに、とぼとぼと歩いていたかったのかもしれないと、今は本当に思うのです。

  それは計画や目的もなく、計らい事や人間の賢しらからは遠く離れ、こうしてただ前に進むこと以外に気にかけることもなく、何かに思い入れることもさらさらなく、過去にも未来にも囚われることなく、この途轍もない身の引き締まる単調さだけに、それでも、単調さが私を力強く律動するその果てしのないこうした反復に、この身をいつ迄も浸していたかったのだと思うのです。