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バルブの前、実は当時、株の仕手集団の知人と一緒に、そうした相場で生きていこうと思っていたことがあった。取引所にはまだたくさんの場立ちがおり、私は30代そこそこであった。

 私にはそうした上か下か、投資は魑魅魍魎の世界だが結果が余りにも明らかで、倫理の外の、騙された方こそが当然に悪い側に立たされる一見錯到した魔界であった。証券マンは手数料を競い、顧客には何度も売買をさせ、何人自殺者を出したかを親しい私に自責の念もなく話す世界であった。

 しかし、他の閉じたギャンブルとは違って、世界の出来事に広く窓が開いた情報戦でもある相場の世界が好きだった。今とは違い短波放送と新聞、証券会社が主な情報源だった頃である。朝、日経や株式専門紙の株式欄を床に広げ、ふと気がつくと、すでに陽は落ちて夕闇が迫っていたこともあった。各新聞の株価欄に、その日の相場の一気呵成の物語を読み込んでいたのである。

 できることなら一生住所不定で、鞄いっぱいに現金を詰めて、だれともわずらいを持たず、最後は場末の汚いホテルで寂しく死にたいとも思っていた。しかし、そんなことは才能のある一握りの者の特権だった。金に対する強い執着こそが、この世界で最後まで生き抜くための鉄則であり、また必要な才能であった。私にはそれがなかった。

 いわゆるブラックマンデーの時、東京駅前のとある証券会社の、私以外誰もいなくなった株価ボードの前で、ほんとうに資本主義自体の崩壊の奈落を見たような思いになったこともあった。そしてあらゆることに実体はなく、この世のすべてが幻ではないかとも、強く胸に宿った。

 住友鉱山や不二家の仕手戦で名を馳せた是川銀蔵や江戸時代の米相場師が私のアイドルであった。当然に株は天職かと思われた。残念ながら今でもそう感じる、一匹狼のその感覚をもたせてくれた他の仕事はない。ここに至った書き物も、そうした相場の情報発信に始めたものであった。

保線作業はその失敗の成れの果てだった。


軌道工の唄 (10)

  そんなわけで季節の変わり目の、雨がちな梅雨の季節になると、身体はもちろんのこと、心までが黴臭い飯場のプレハブ小屋の外へ出るのを嫌がり、そうして、一週間も仕事がない日が続くのです。しばらくすると辺りに漂う日光杉の下草のすえたような腐臭が、私達自身からも発しているように思えたものです。

 当然ながら収入も極端に目減りをすることになりました。私達は皆、世の中から外れた、それも中間搾取の甚だしい下請け会社のそのまた下請けの人夫、日銭を稼ぐ日雇い労働者であったので、もちろん雨の日の収入などがあるわけはなく、こうした長雨が続くとしだいに不機嫌になって、お互いに口を閉ざすようになりました。

  ある日のスポーツ紙の三行広告に『軌道工求む、経験不問』の小さな文字を見つけて、行先も賃金も何も教えられず、都内の某所で軽トラに詰め込まれては、金になるからと、藁をも掴む思いで車窓の外を眺め、騙されて野犬狩りにもしっぽを振り続ける犬のように、この栃木の日光くんだりまで連れてこられた連中ばかりでした。仕事の後は、汚れた作業着のまま蒲団にもぐり込むと、一切の過去を断ち切らんとするかのように、つるべ落としに大いびきを立ててすぐに眠りに落ちいる仲間たちでした。

 そして、私の当時の暗い心象が、そのまま壁の外に染み出したような、飯場近くの日光街道の黒々とした杉並木が、昼間でもあたりを薄暗くしている場所に、私たちの仮の住まいが建っていました。晴れの日は、どこの飯場にもいた同じプレハブの一階に住んでいる地元の賄い婦が、我々の弁当を詰めてくれ、皆がそれを持たされて現場に出発しました。後ろを振り返ると、いつも手を振る彼女の姿がありました。