畑の中にぽつんと立つ桜の古木だった。傍の無人踏切を夜空から覆い隠すように、満開の花を咲かせていた。遠くの軌道上に光点が小さく揺らいでいる。それは始発電車がこちらに近づいて来る灯りのようだった。まだ、夜は明けていなかった。

 深夜の作業を終えたとき、踏切の警笛が鶏鳴のように鳴り渡った。それは日の出を告げる信号機の真っ赤な閃光灯が四方の闇に飛んでは、夜空に張りついていた星々と交互に代わった。

 突然の赤色赤光の点滅は私の目をくらました。頭上に、桜の花びらの天蓋が闇の中から浮かびあがるたびに、同じ色の花の血を、こずえより大地にしたたらせる桜の古木が、繰り返し繰り返し現れてはまた私の前で隠れた。


軌道工 (27)

 桜という樹の、その春爛漫の花びらが一斉に風に靡いて、揺れるこずえにつむじを巻くころになると、降り積もる落花の淡いは大地に際限もなく、足もとがまた薄紅色の明るさで華やいできます。まさに桜花爛漫の頃です。

 しかし、幾春も、あてもなく歩く先々で、散り急ぐ桜の花びらを見てきましたが、いつもその見上げた花盛りの茂みに、私の目には妖気がゆらゆらと見え隠れもしていました。その完璧な美しさはどこか深い危うさを隠し、それはこのうつし世と幻のぎりぎりの均衡に張りつめているようにも見えました。

 さて、その桜の本性がわからないままに、長い年月を忸怩たる思いで過ごしてきました。桜の満開の、花びらのさやけくあればあるほど、山あいに、そんな散乱する美しさの匂い立つれば立つるほど、わたしのまぶたには深い虚空が立ち現れていました。

 この世のものとも思えないその美しさは、たしかに私たちと隔絶する別の空間からやって来たものに違いないのです。まるで透いた壁穴を通して向こう側を私たちは見ているようです。ならば、その小穴の向こうの世界にその実体があるのか、いや、今見ているこちらの世界がやはり本物なのか、私にはよく分からなくなるのです。

 しかし確かに私が言えることは、桜の魔性はその間の通路を自由に出入りできることです。そして桜はうち眺める軌道工の私の鼓動と呼吸を、いつも妖しく乱すことでした。