新大久保界隈
僕は今、新大久保の小さな喫茶店で珈琲を飲んでいるのだが、テーブルの隣も向かいも、カウンターの中の若い女性店員も皆、韓国人だ。テーブルに向かい合う二人の女性が手を取り合ってキリスト信仰の祈りをあげている。なぜなら時々聞こえるアーメンとアボジの言葉だけは僕にもわかったからだ。異郷とされたこの狭い地で生きていかなければならない切実さのようなものが、僕にはほとんど解せないその言葉の抑揚から伝わってくる。目の前の小雨の降る職安通りを車が走っている。その通りの向こう側に「両班」の看板の字が夕暮れのネオンに光っているのが見える。僕の周囲で話されている言葉がさっぱりわからないのが恥ずかしい。それでもなんとなく、日本人ばかりの喫茶店よりは落ち着くのだ。日本社会の枠にいると、僕は知らないうちに息が詰まっているようだ。多様な言葉が周りで聴こえてくるのは大好きだ。わからなくともいつも知らないうちに、そんな話し声に耳をそばだてている自分がいるのに気がつく。こうした場所で僕は孤独だが、本当の個人を意識しそれで自分に立ち戻れる。