鉛色のトタン屋根をはがすような大きな音が頭の中で聞こえ、はっとして悪夢から目が覚めた。私は薄暗い自分の部屋で熱にうなされていたのだ。目を開いたまま天井のざらざらした灰色の塗装を見つめていた。腰に手を触れると、伸びきった寝間着のゴムにまで汗が染み込んでいた。背後から追いかける黒い塊が私の首筋にしがみつき、振りほどこうとする手を払いのけて、そのまま何度も何度も私を床下の闇に引きずり下ろそうとした。その闇の底は封印された記憶の底と区別がつかなかった。会いたくもなかった連中が私に無数の手を伸ばしてすぐそこまで迫っていた。
昭和の名曲『悲しい酒』、徳永英明が歌う最近発売されたこの曲はだれもが知る美空ひばりのものだが、彼が歌うのを聞いて初めてこの曲に深く感動した。私はもともと演歌はそれほど好きではない。たまにつき合わされたカラオケで、他人が歌っているのを聴いてそれで十分すぎるほどだった。まして美空ひばりには縁がなかった。彼女は天才と言われるが、私には彼女の演歌と歌声のどこか過剰さのようなものが鼻についてずっと敬遠してきた。しかし徳永英明の中性的な歌唱力が、そのどぎつい演歌の感情の押しつけから私を救ってくれた。彼はこの曲本来のすばらしさに気づかせてくれた。私は奔放な感情表現より抑制された表現に深く胸を打たれることの方が多い。それはなぜなのかわからない。
消毒液の匂いが微かに廊下を漂っている。この匂いは人を内向きに閉ざすようだ。痛みと不安の本来のにおいかもしれない。そのせいか老人も子供も自分の名前が呼ばれるのを大人しく待っている。診断書にはどんなことが書かれるのだろうか、もしかしたら明日からの自分の運命をも変えてしまう小さな紙切れが患者を待ち受けているかもしれないのだ。静まり返った病院の待合室はあるはずもない柱時計の秒針を刻む音が聞こえてきそうだった。好奇心から患者一人一人を吟味する私の視線さえも、もしかしたら音を立て隣に聞こえているのではないかと怖れた。
仙台塩釜の叔父から突然十年ぶりの手紙がきた。驚くほど風貌も筆跡も亡き父とよく似た叔父からのものだった。高齢のせいかその筆跡は所々震えて読みにくかった。その中で私に長く手紙を出さなかったことを謝していた。それはそのまま震災にも連絡しなかった私への非難でもあろう。身から出た錆びではあるが、さて困ったことになった。
ひとりでに秩序がうまれる世界に「意思」は生じえないという。我々は逆のエントロピー増大の世界にいる。世界は常に秩序崩壊に向かっているのだ。だが生命はそうした秩序崩壊に抗(あらが)う為に、「意思」 という武器を進化させた。そしてその「意思」を生み出す過程に時間も生まれてきたのだ。
新聞を読まなくなった。週刊誌や雑誌も読まない。私の世の中の知識はネットで見るヤフーニュースの見出しレベルだ。重大なニュースは誰かが喋っているのが耳に入ってくるので心配いらない。それでも十分生きていける。テレビはさらに見ない。一日中、その空箱を見つめている人間が私には信じられない。テレビを消すとまわりにはすぐに静寂が戻る。その沈黙こそが我々一人ひとりを取り囲むほんとの現実なのだ。
昭和の名曲『悲しい酒』、徳永英明が歌う最近発売されたこの曲はだれもが知る美空ひばりのものだが、彼が歌うのを聞いて初めてこの曲に深く感動した。私はもともと演歌はそれほど好きではない。たまにつき合わされたカラオケで、他人が歌っているのを聴いてそれで十分すぎるほどだった。まして美空ひばりには縁がなかった。彼女は天才と言われるが、私には彼女の演歌と歌声のどこか過剰さのようなものが鼻についてずっと敬遠してきた。しかし徳永英明の中性的な歌唱力が、そのどぎつい演歌の感情の押しつけから私を救ってくれた。彼はこの曲本来のすばらしさに気づかせてくれた。私は奔放な感情表現より抑制された表現に深く胸を打たれることの方が多い。それはなぜなのかわからない。
消毒液の匂いが微かに廊下を漂っている。この匂いは人を内向きに閉ざすようだ。痛みと不安の本来のにおいかもしれない。そのせいか老人も子供も自分の名前が呼ばれるのを大人しく待っている。診断書にはどんなことが書かれるのだろうか、もしかしたら明日からの自分の運命をも変えてしまう小さな紙切れが患者を待ち受けているかもしれないのだ。静まり返った病院の待合室はあるはずもない柱時計の秒針を刻む音が聞こえてきそうだった。好奇心から患者一人一人を吟味する私の視線さえも、もしかしたら音を立て隣に聞こえているのではないかと怖れた。
仙台塩釜の叔父から突然十年ぶりの手紙がきた。驚くほど風貌も筆跡も亡き父とよく似た叔父からのものだった。高齢のせいかその筆跡は所々震えて読みにくかった。その中で私に長く手紙を出さなかったことを謝していた。それはそのまま震災にも連絡しなかった私への非難でもあろう。身から出た錆びではあるが、さて困ったことになった。
ひとりでに秩序がうまれる世界に「意思」は生じえないという。我々は逆のエントロピー増大の世界にいる。世界は常に秩序崩壊に向かっているのだ。だが生命はそうした秩序崩壊に抗(あらが)う為に、「意思」 という武器を進化させた。そしてその「意思」を生み出す過程に時間も生まれてきたのだ。
新聞を読まなくなった。週刊誌や雑誌も読まない。私の世の中の知識はネットで見るヤフーニュースの見出しレベルだ。重大なニュースは誰かが喋っているのが耳に入ってくるので心配いらない。それでも十分生きていける。テレビはさらに見ない。一日中、その空箱を見つめている人間が私には信じられない。テレビを消すとまわりにはすぐに静寂が戻る。その沈黙こそが我々一人ひとりを取り囲むほんとの現実なのだ。