こんにちは

最近は、blogを書く前の確認作業をしているうちに、面白いなあと興味を持つ対象がアチコチに飛んでしまって、

凄いね。面白いなあ。

で、なかなか書き始められないままになってしまうことがしばしばです😅




ですが、要点を書きとめておかないと、すぐに忘れてしまいますから


書きとめねばですね。


蓼科ドライブの帰り道に、お伺いしました

酒折宮も、私の想像以上に面白かったです。





関東には、日本武尊が東方遠征に歩んだルートの往路と復路がありまして、

実際にお参りをしてみますと、その違いを感じられることが面白いです。




日本という国がどのように発展して行ったのかが日本武尊の歩みでわかります。



それは、既に発表されたり本になったりしていて

新しい発見などでは全く無いのですが、

自分で調べて知るという事が、この歳になってもわくわくします。




甲府市にあります、酒折宮(さかおりのみや)は、日本武尊東方遠征の復路にあります。














酒折は、復路で甲斐国にしばらく立ち寄った際に、宮(住まい)を構えた場所で、




山梨県で、日本書紀と古事記に地名が出てくるのは、酒折宮だけで、


日本武尊が

「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」

と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が

 「かかなべて夜には九夜日には十日を」

と片歌で答えたことが記載されています。



筑波をでていく晩寝ただろうか?

9泊10日かかりました










連歌発祥の地です。






問いかけた、日本武尊に対して、誰も答えることができなかった時、


声を発したのが、御火焚の塩海足尼で、利発さに心をうたれた日本武尊が

東方遠征に出発前に伊勢神宮の倭姫命から授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙剣)と火打ち袋のうち、

火打ち袋を授けられ初代甲斐国造(くにのみやっこ)に任命されました。



酒折宮は

この火打ち袋を御神体として、日本武尊を御鎮祭したのだそうです。





どちらの時代が先であったのかは、わかりませんでしたが塩海足尼は

東方遠征の帰路、景行天皇40年に日本武尊が同じく甲府にあります金櫻神社に参詣した際に、社殿の造営を命じられたとありまして、

ただの御火焚(神事を行う人?料理人?)のおじいさんではなかったのでしょう。



甲斐国二ノ宮の、美和神社も社記に

日本武尊の命にて、塩海足尼が大和の大三輪神社より勧誘したとあり、御祭神は大物主神です。

その後、平安時代(886年)国司橘良基が奏請して、甲斐国二ノ宮としたそうです。



ということは、

ここからは想像ですが、


物部氏の末裔で、橘氏のご親戚?

弟橘媛ともご親戚だったのでは?


塩海足尼さん、昔話ではおじいさん設定でしたが、

尼の文字を当てているのは、女性の可能性は?

各地で日本武尊さん、お姫様と伝説を残していらっしゃいますし。


などと想像すると、物語が書けそうです。















日本武尊は復路は、海側へ戻る事無く、足柄峠から酒折へ、その後、信濃の倉の坂から、尾張(熱田神宮)に至ったということですので、


酒折と、倉の坂を結ぶ途中には、諏訪がありますから


そのルートと酒折はその時代既にヤマトの国であったという事ですね。







酒折という場所は、関東、東北、近畿の全ての起点になった場所だったようです。



日本列島に馬が伝来したのは4~5世紀ですが、

甲斐国では4世紀後半の馬の歯が出土していて、希少な馬を早い段階での飼育が始まっていたということは、


有力で先見の明がある豪族がいたという証で、

後に甲斐の黒駒と呼ばれる神馬を産出する御牧を有する土地になりました。





甲斐の黒駒

推古天皇6年(598年)4月、聖徳太子は諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養をさせまして、


同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日で都へ帰還したという伝説です。





歴史的にも重要な場所であるにもかかわらず、境内はとても静かで、心静かにお参りができました。


酒折、坂折

どこなの?とご興味をお持ちいただけて、地図を見ていただけたら嬉しく思います。



お読みくださいまして、ありがとうございました。

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