こんばんは




あっという間の一週間でした。




弟橘媛様って、どのような方なのでしょうか?




いろんなものを読んで読んで読みまして、


結論は…




ホームページに書かれていること以上の事は、正確にはわからなかったです。




家系図なども、数十種類はググって見たのですが、

たぐればたぐるほど、私の頭では理解不能でした(^^;)


王家に嫁ぐ家の女性の御先祖は、どこかで王に繋がる家系のようで、タグれば饒速日命様に繋がって、最終的には、伊邪那美命様のお子様になる、トーナメント表で、その当たり前の事に気がつくまでに、


何を知りたかったのかを忘れそうになってしまいました。


父方をたぐっても、母方をたぐっても、結局同じになるって、人類はみな兄弟、なのかな?←すみません。目がチカチカして焼けになっておりますです(笑)


私なんぞは、両親共に、私の祖父母までしかタグれませんので、

トーナメント表だと思えば、全ての人が、伊邪那美命、伊邪那岐命様に繋がっているのかも。というのが、今日の学びという事ですね。←今宵、良い夢を見ましょう♡




菊の紋と変わり向こう橘の紋


それでは、変わり向こう橘の紋を使った、氏は、どちら様なのだろうか?


これも、ググってググってググりまくったのですが、

橘の紋は、日本十大紋に入るのだそうですが、(日本で9番目に使用者が多い紋だそう)、変わり向こう橘は、ちょっと珍しい紋のようで、ヒントが見つけられませんでした。





美しい弟橘媛様の碑
いかりと、何なのでしょうか?
櫛?包丁?

舵の碑

弟橘媛命の顕彰と海の安全と平和を祈る碑だそうなので、

船の舵だったのですびっくり










昔は、浦賀水道から千葉へ渡って、東北へ行くルートが最短ルートでした。

日本武尊様が東征の際、海が荒れて、旅を進める事が出来なくなりました時に、

妃の弟橘媛は、

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも 

(相模の国で荒ぶる神がいると欺かれて野中で火攻めに遭った時の事を思い出しまして)

相模の野原に燃える炎 の中に立って私の安否を気遣ってくださった夫よ

という、歌を遺しまして、

海を鎮める為に、海の上に敷物を敷き、そこに自らを捧げ、海の神様に海を鎮めて下さるように祈りました。

次々と、お付の女官達も身を殉じたことにより海は鎮まり、日本武尊様の船は無事に茂原に渡る事ができたのだそうです。





包丁塚






六角橋 大伴久応 (おおとものきゅうおう) という者の 庵 (いおり)に泊まった際に、


走水の住人であった大伴黒主(尊が命名)が,日本武尊にハマグリの料理を献上して喜ばれた故事から,包丁への感謝と鳥獣魚介類の供養のため,昭和41年11月(1966年)神奈川県調理師協会が発起人となり,調理業界をはじめ一般の方々の浄財により建立されました。



大伴久応黒主氏は日本武尊様に気に入られてそのまま召し抱えられて、大和朝廷の料理人になられたそうです。









お神輿には、巴の紋






階段を登ります












御祭神

日本武尊様
弟橘媛様



弟橘媛がお祀りされていた橘神社は、もともとは御所が崎に鎮座していらっしゃったのだそうですが、明治時代に軍用地になった為、合祀されたそうです。




拝殿は、戦後建て直されているそうですが、その時に床下から、日本武尊様から賜った兜を収めていた石室が見つかったそうです。























弟橘媛様の後に殉じました女官様達のお社



山を登りますと






日本武尊様と弟橘媛様がご覧になった海が見えます。






先程の歌の碑





神明社 (天照大御神 あまてらすおおみかみ)
須賀神社 (須佐之男命 すさのおのみこと)
諏訪神社 (建御名方神 たけみなかたのかみ)


神明社は伊勢山崎に鎮座。 諏訪神社は御所が崎に鎮座。
どちらも、軍用地になった為、
須賀神社は走水神社にありましたが、3社同じ場所へ明治18年からでお祀りする事になったのだそうです。





手水舎の隣で、お砂を分けて下さるのですが、

白砂は走水神社に橘神社(弟橘媛命の社)が合祀される以前(1883年)お二人が暮らした、橘神社があった御所が崎東海岸から小舟で運んで来て整斉したものです。




去年の台風で倒れてしまった御神木からは、たくさんの芽が出てきておりました。



日本武尊様のお役目を全うして頂くために
自らの身を投じた、弟橘媛様と重なって見えまして、

思い切って手放すという事が、新しい世界へ繋がるのですね。

と、思いました。

お読みくださいましてありがとうございました。
皆様に良い気付きが訪れますように。