こんにちは
甲斐善光寺、とても良かったので、あたためてしまいまして、ブログに書く事が、遅くなりました。
めっちゃ長いです。
甲斐善光寺は武田信玄が上杉謙信と川中島で戦った際に、信濃の善光寺が消失するのを恐れて、1558年に信濃善光寺から宝物、仏具、梵鐘まで甲府に移して同じ建物を建立したそうです。
そもそも、何故、甲斐に善光寺をそっくり移したのかな?と疑問を持ちました。
信玄公亡き後、織田氏、徳川氏、豊臣氏の
間を転々として、豊臣秀吉が亡くなる前日に、信濃善光寺に戻ったそうです。
御本尊は仏教伝来の時に渡来してきた御仏の阿弥陀三尊像です。
ここからは、手元に来た不思議なガイドブックからです。
そもそも、阿弥陀三尊仏とは、昔インドに疫病が流行った時に、お釈迦様におすがりした不信心なお金持ちが、お釈迦様に西方極楽浄土の阿弥陀如来様を信じなさいと説かれ、
教えに従い西に向かって
南無阿弥陀仏と10回唱えるとたちまち
観音、勢至菩薩を従えた阿弥陀如来様が現れて大光明を眉間から放たれました。
その光にてらされて、国中の人が病から救われたので、
そっくりの三尊仏を作ったそうです。
三尊仏は、天竺、百済を救い
三尊仏の阿弥陀如来様が日本に渡りたいと仰られたそうで、
欽明天皇の元へお渡りになりました。
天皇は崇仏派の蘇我氏に三尊仏を与えました。
その後、国中に疫病が流行った時に、神道派の物部氏が、異国の神を祀った祟りだということで、蘇我氏の建てた寺を焼き払い三尊仏を難波の堀江に投げ込んだのだそうです。
何年か後、通りかかりの本田善光が堀江で光っていた三尊仏を拾い上げ、飯田の自宅に連れ帰り、お告げで信濃に安置しました。
その後、善光の息子、善佐が若くして亡くなった時に、阿弥陀如来様が現れて、
善佐を甦らせて下さるのですが、
善佐がこの世に戻る途中で皇極天皇に会い、阿弥陀如来様にお願いをして、皇極天皇も甦らせていただきました。
皇極天皇はお喜びになり、
善光は、甲斐守に、
善佐は、信濃守に任命されたのです。
なので、突然、武田信玄公が、甲斐に善光寺を移したのではなくて、ご縁がきちんとある中での
御本尊の阿弥陀様の予言だったりするのかもですね。
その阿弥陀三尊像は、信濃の善光寺が644年に創建された10年後位に、自らのお告げによりお隠れになったとされて、以後、ご開帳のときでさえ、信濃善光寺の本堂奥の瑠璃壇に安置されているそうです。
金堂内は撮影禁止です。
金堂内では、お守り、御朱印等が授かれます。
古い絵葉書、無料でいただけました。
拝観料を納めますと、金堂内に入れます。
素晴らしい描写だと思います。
7年ごとのご開帳でお会いできます。
秘仏の三尊仏と同じ位の大きさだそうです。
金堂内、とても静かで暗いのですが、緋毛氈の敷いてある所までは、上がっても良いそうで、阿弥陀如来様のお傍にお参りする事ができます。
とても広い御堂の天井画は美しい天女が舞っておりました。
天井画は、信濃善光寺の天井画とは違うようです。
堂内に、沢山の厨子があり、たくさんの仏像に会う事ができました。
堂内の奥に、地下へ行く階段があり、真っ暗闇の中、手探りで心という形に回廊を巡りまして、御本尊の真下にある錠前に触れると御本尊様とご縁が繋がるのだそうです。
解除になった日でしたので、
他に人が全然いらっしゃらなくて、
広くて、暗い御堂、暗闇の戒壇、厨子の中にいらっしゃる仏様への畏怖と感謝の気持ち、忘れることの無い参拝になりました。
拝観致しますと、宝物館へも入る事ができまして、
そして、こちらが無料で配られていました、不思議な古いガイドブックです。
何が不思議なのかと申しますと、
このガイドブックは、信濃善光寺のガイドブックだったのです。
女子旅の友達と、昨年から、次に泊まりで行くなら、善光寺と戸隠と決めてあったのです。
信濃善光寺の境内、美味しいもの、下調べバッチリになりました。
コロナが無ければ、たぶん3月か4月には、行ったと思います。
天候不良で行き先を変更して突然に、ドライブする事になった、武田神社、甲斐善光寺、信濃へ行く前にご縁が結べて良かったです。
わかりづらいと思われます長文をお読みくださいましてありがとうございました。