昨日、子供達が寝てから、夫の希望で、
映画「羊たちの沈黙」を観ました。





私は観るの、2回目だけれど、怖かった。
交感神経優位になってしまい、あまり眠れませんでしたえーん
なんかもう、全身で苦しかったー。



はあ。バラに癒されよう。





クラリスの子羊の鳴き声の話。
今も鳴き声が残っているというのは、今もその苦しみが続いているということ。


文字通りの、屠られる子羊を助けられなかったトラウマという解釈もあるようですが、私は、

子羊=性被害を受け逃げられなかったクラリス自身

だと思って観ました。


嘘を吐いたわけではなく、クラリスは無意識のうちに、自分の体験を子羊のことに変換させて記憶したのではないかな。


レクターは、その記憶の改ざんを見抜いています。
クラリスがレクターの求めに応じ、彼女にできる範囲で真摯に傷を見せたことに対して、レクターは敬意を表したのだと思います。


クラリスは連続殺人犯に誘拐された女性を無事助けます。
そしてFBIで表彰されます。

子供の頃は自分を助けることはできなかったけれど、大人になった今、他の被害者を助けることで、トラウマを克服できた

かのように見えます。


レクターはそんなクラリスに電話し、
「子羊は鳴き止んだかね?」
と聞きます。


他者を救うことで自分を救うことができたか?
という質問です。
質問というか、もはや反語だろ!と思いました。
救うことができた?いやそんなわけないだろう?
って。




さて、今日のタイトル。


他者を救うことは自分を救うことになるのか?

私も、否!と答えます。


何人助けたって、どんなに素晴らしい救出をしたって、羊は鳴き止みません。


羊が鳴いているまま、その自分の人生を慈しんで味わうしかないです。


他者を救うことで自分を誤魔化さないこと。
自分を見るしかないのだ。
私には私しかないのだから。


クラリスは、他者を救うことで過去の自分を救うためにFBIにいる限り、トラウマの再演を繰り返すことになるでしょう。
他者を救うことでその場その場はカタルシスを得られるかもしれないけれど、それは、代用品であって、自分の苦しみから逃れることはできないのだ。






私が眠れなかったのは、
私が精神科医として他人の傷を癒す手伝いをしたところで、自分の傷から目を背けていてはなんにもならないんですよーと突きつけられたからです。
まあ誰かの役に立てたときは、素直に嬉しいし、自分の端っこは救われてるんですけどね。


薄々感じていたんですけど、どーんときた感じです。


1回目観た時はこんな気持ちにならなかったのに。
はあー。疲れた。
夫が観たいというから付き合っただけなのに、ダメージがすごかった魂が抜ける

本当、すごい映画です。
今日は早く寝よ。


 

 

 

 

 

 

 

 

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Ameba映画部