プロレスラーのアソコ、そんなに見たいか
お股から生まれて来たから、懐かしさと哀愁がありアップしたくなるのか・・・
女性たちの悩みはトイレに行きたい
カネ絡みと女の事件は
指揮官が無知無能だと・・・。
最期の時に出る言葉は「お母さん・・・」
軍靴の中に唐辛子を入れて雪の富士山登頂訓練したと近衛師団に所属していた祖父から聞いていた。
仲間たちなのか「同胞」仲間なのか、アボジ・オモニ吉本在日一家
ムスコがアソコ好きなんですね ヒカキン
田崎眞也と田崎史郎なら、甥がパレスホテルでソムリエしていたから田崎眞也の方が身近な存在だな。
早稲の娘たち
都の性北(性来た)は、デリヘル嬢も政経学部・法学部・商学部・理工学部と多い
継父に敬服
我が子を護らない母親。お母さん助けてと言えない
5歳で亡くした母、毎年届いた「天国からの手紙」…20歳迎えた娘へ最後のメッセージ
配信
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大津秀一
緩和ケア医師
見解 物語のような印象的なお話ですね。 私も終末期のがんの患者さんを診るようになって20年以上になりますが、最近は以前と比べて、亡くなる前に家族へ何かを遺そうとする意思を示されたり、行動に移されたりすることが増えているような印象があります。実際、映像を容易に撮れるようになったことがその点で後押しになっているような気もします。 梨菜さんのお母さんが亡くなったのは2009年ですから、15年前ということになります。梨菜さんを思う強い気持ちが、お母さんが未来の娘に手紙を書くという行動に向かわせたのだと感じました。 お母さんもすごいですし、お母さんが心から願ったようにまっすぐ育った娘さんも素晴らしいと思います。
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碓井真史
社会心理学者/博士(心理学)/新潟青陵大学大学院 教授/SC
補足 <みんなで子供たちのために> この記事に加えて、読売新聞のサイトに掲載されている続きの記事も、1から7の最後まで読みました。良い記事です。 様々な理由で親に育ててもらえない子供たち。養護施設職員や、里親さんから、様々な話を聞きます。学校で家族に話題が出た時は、いつも戻ってから荒れる子たち。里親の愛を確かめる「試し行動」として、階段の上から家具を投げ落としてきた子。子供も大人も苦悩の中で、人生を立て直そうとしています。 本来ならば、この記事のように、親が亡くなっても離婚しても、子供への愛は変わらないと伝えたいのですが、現実は甘くありません。しかし、親が育てられない時、親が愛を注げない時こそ、社会が子供を守り育てます。 養護施設、その職員、ファミリーホーム、里親さん、その活動を支援する私たちです。子供たちは、どの子も愛され守られる権利を持っています。
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稲葉可奈子
産婦人科専門医 / 医学博士
補足 子宮頸がんは20代後半~40代に多く、お子さんが小さいうちに亡くなることもあり「マザーキラー」とも呼ばれています。まさに。 毎年お誕生日に亡くなったお母さんから手紙が届く、感動的な話ですし、わたしも涙が止まりませんでしたが、本当は手紙よりも、お母さんとずっと一緒にいたかったはず。 子宮頸がんは、今は、予防できる病気です。 小6~高1の女性が対象のHPVワクチン(定期接種なので無料)と、 20歳からの子宮頸がん検診(自治体により補助がある) の両方で、ほぼかからずにすむ病気となっており、 世界は子宮頸がん撲滅に向かっています。 が、日本はHPVワクチンの接種率が低いまま。 これを美談でおわらせてはならず、子どもにこんな思いをさせないためにも、HPVワクチンの重要性・安全性と、子宮頸がん検診をもっと知って頂きたいです。 高2~26歳の女性もこの夏までに接種開始で無料で接種できます。
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我が子を想う母の愛情が胸に響く。天国からのビデオレターという話もあるが、毎年、誕生日に届く母からの手紙、幼かった梨菜さんは、天国にいるお母さんが手紙を書いているに違いないと思ったことだろう。そして月日は流れ最後の手紙を受け取ることになったが、手紙を読む度に母が傍にいる気がしただろう。梨菜さんにとって一生の宝物だと思う。 優しい母の想い出を何時までも大切に生きて行って下さい。
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我が家の嫁も、娘が小学校1年の時に、癌で他界しました。 この頃の娘と被りますね。 涙が止まりません。 娘は、カレンダーに、ママが死んだ日と記入し、東日本大震災まで取り外しませんでした。 テレビで親を亡くした子供達をみて、 私だけじゃ無いとカレンダーを外しました。 頑張って、私も頑張ったと言ってましたね。 娘も25歳になります。 色々な人生が有りますね。 頑張ってください。
母からの最後の手紙を読み、笑みをこぼす梨菜さん(2023年12月、福岡県で)=貞末ヒトミ撮影
5歳で母を亡くし、松山市のファミリーホームで育った大学生の梨菜(20)には、ずっと大切にしている手紙がある。母の順子が34歳で亡くなる直前、将来の娘を思い浮かべてしたため、20歳まで毎年の誕生日に届けるよう弁護士に託していた。その最後の1通が2023年12月、梨菜の元に届いた。 【写真】児童養護施設に入所していた頃の梨菜さん。あまり感情を表に出さなかった(2010年、神戸市で)=梨菜さん提供
梨菜は今、児童福祉司を目指し、福岡のマンションで一人暮らしをしながら、大学に通う。アルバイトをかけ持ちし、課題のリポートや実習をこなす。化粧品の販売員をしていた母の影響だろうか。メイクの楽しさを知り、鏡を眺めていると、「お母さんに似てきた」と思う。 たった一人の家族だった母を亡くしてから14年余り。困難に直面した時、さみしさで押しつぶされそうな時、母からの手紙を読み返し、その字を指でなぞってきた。
〈少しずつ大きくすてきな女の子になっていくのがとてもうれしい〉(8歳) 〈もう立派な女の子です。お母さんは天国で見守ってるけど、りな自身もきちんと自分を守る事をおぼえてね〉(11歳) 〈あこがれる男の子の1人くらいはできてしまったかなあ〉(16歳) 手紙は成長に合わせて漢字が増え、涙なのか、文字がにじんだ部分もあった。 〈梨菜。心から愛してます〉 今月の誕生日。最後の手紙にも温かな言葉がつづられ、母が空から見ているような感覚に包まれた。 「お母さん。私もう20歳だよ。お母さんが願っていた大人になれているかな」
■週に3回、1時間だけの面会
梨菜は神戸市出身。幼い頃、いつも母にべったりだった。台所で料理をする母から離れず、困らせたことをよく覚えている。 順子に子宮頸がんが見つかったのは08年7月、梨菜が4歳の頃だった。子宮を摘出したが、がんは肺や肝臓に転移。翌09年3月、医師に「余命3か月」と宣告され、順子はまもなく市内のホスピスに移った。 両親は離婚し、梨菜は市内の児童養護施設に預けられた。施設の職員に連れられてホスピスに通ったが、面会は週に3回、たった1時間。病室で横たわる母を見ると、うまく言葉が出なかった。さみしくて帰りたくなかったが、そんな「わがまま」は口にすることはできなかった。 順子が亡くなる1か月前の09年5月、梨菜がホスピスに泊まることが許可された。さみしそうな娘を案じ、母がかけあってくれたのだ。病室の畳に敷いた布団の中で、久しぶりに2人で寝た。母に抱きしめられた梨菜は声を絞り出した。 「お母さん死なんといてね。一緒にいて、ずっとギュッとしていてほしいもん」
■「悲しまない」5歳の約束
順子さんを見舞いに行った時の梨菜さん。折り紙と似顔絵をプレゼントした(2009年、神戸市で)=梨菜さん提供
母の体調は日に日に悪化した。別れを覚悟したのだろうか。ある日、梨菜に言った。 「一度この世で会った人は、また次の世界で会えるんだよ。梨菜の赤ちゃんに生まれ変わるかな。だから悲しまないで」 順子が病を押して、梨菜に宛てた手紙を書いたのはこの頃のことだ。 09年6月6日朝。梨菜は施設の職員に呼ばれ、病院にかけつけた。「お母さん、起きて。起きて」。懸命に体をさすったが、目を覚ますことはなかった。 「まだ小さいのにかわいそうに」。母の葬儀で大人の言葉が耳に入ってきたが、泣くのを我慢した。悲しまないと母と約束したからだ。
■お母さんと同じにおいがした気がして…
施設では、梨菜と同じように親と暮らせない約40人が共同で生活していた。個室はなく、夜は10人ほどが同じ部屋で布団を並べる。 梨菜のように親を失った子もいれば、貧困や病気が理由で親が育てられなくなった子、そして虐待を受けた子もいた。子どもたちはストレスを抱え、毎日けんかが絶えなかった。 梨菜はなじめず、一人で絵を描くことが多かった。毎夜、布団で気づかれないように泣いた。
がんが全身に転移し、座ることもできない中、梨菜さんに手紙を書く順子さん(2009年5月、神戸市で)=順子さんの友人提供
ソーシャルワーカー(相談員)として施設にいた神野八重子(70)は、感情を表に出さず、周囲の顔色をうかがう梨菜を覚えている。ストレスからか、指の皮をめくる癖があった。職員が絆創膏を貼ろうとすると「自分でするから」と断る、そんな子どもだった。 神野は順子の生前から梨菜がホスピスに見舞いに行くのを送り迎えしていた。母を亡くし、ふさぎ込む梨菜を見かね、自宅に招いたことがある。神野の娘とトランプで遊び、一緒にお風呂にも入った。梨菜を抱き寄せ、背中をなでると、突然大声で泣き出し、泣き続けた。神野が初めて見た涙だった。 「お母さんと同じにおいがした気がして」。梨菜はそう振り返る。今は施設を離れ、ボランティアで施設出身者の居場所作りをしている神野は「お母さんを亡くしてから、ずっと一人で我慢していたんでしょう」とおもんぱかる。
■初めての手紙…何度も読み返す
手紙を広げ、母への思いを話す梨菜さん(福岡県で)=佐伯文人撮影
母の死から半年がたった6歳の誕生日。弁護士の佐藤が施設を訪ねてきた。花束とともに手渡された手紙には見慣れた字があった。 <おたんじょうびおめでとう! おかあさんは、りなのこといつまでもあいしてるからね。ずーっとおそらからみまもっているからね> 順子が死の直前に手紙を書き、佐藤に預けていたことを初めて知った。20歳になるまで毎年届くという。その夜は寝付けず、何度も母の言葉を読み返した。涙があふれた。うれしいのか悲しいのかわからなかった。 翌10年夏、小学生になった梨菜は、母の故郷である愛媛県で開設したばかりの「ファミリーホーム」に移ることになった。 「自然の中でのびのびと育ってほしい」。順子の願いだった。 梨菜は松山市の山あいにあるホームで、里親夫妻の愛情を受け、少しずつ成長していく。その節目節目で、梨菜を支えてくれたのは、母から届く手紙だった。
(文中敬称略)
※この記事は読売新聞が制作し、Yahoo!ニュースが企画したテーマに参加したものです。
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