募る愛ゆえ悪しき女と世に流れ  覚えなきともすべもなし

鬼無里の里

その昔、この水無瀬には京の都から配流された「紅葉」という名の美しく高貴な女性がいました。
里長はなにかと京を懐かしむ紅葉の心を察してこの地に加茂川、東京、西京、高尾、二条、四条など平安の都から名を取った地名をおき、紅葉をなぐさめました。

しかし紅葉は、やがて悪者達に担がれて盗賊の首領となり荒倉山に移り住み、旅人を襲って豪勢な暮らしをするようになりました。
人々は紅葉を『鬼女』と呼ぶようになり、そのうわさは遠く京の都にまで知れ渡りました。
朝廷は平惟茂(たいらこれもち)に鬼女征伐を命じ、苦戦の末、ついに紅葉狩りを果たしたといわれています。

それまで水無瀬と称していたこの地は、以降鬼の無い里、すなわち鬼無里と呼ばれるようになったということです。

 

私事

 世田谷・岡本で生まれ育った姪が、何の所縁かこの鬼無里のある長野市に嫁ぎ子も授かり生活している。

植木屋の多い岡本から紅葉美しい地に嫁いだのも所縁と「ゆかり由香里」が結んだか

 

 

1.昔(むかし)女に化けし鬼の   忘れがたみと伝え聞く
  ああ紅葉(もみじ)たずねて   鬼無里(きなさ)の道
  女ごころを   君しるや

2.悪(あ)しき女と世に流れ   覚えなきともすべもなし
  ああ紅葉(もみじ)たずねて   鬼無里(きなさ)の道
  影に日向(ひなた)に   君想ふ

3.たとえ生涯逢えねども   つのるいとしさ誰に負けん
  つひにもらさぬ我が心   後(のち)の煙に知れようか

4.老し夫婦(めおと)の語らひに   しばし安らぐ浮世かな
  ああ紅葉(もみじ)たずねて   鬼無里(きなさ)の道
  結びかなはぬ   わが恋や

 

 

紅葉伝説(もみじでんせつ)[ 鬼無里伝説(きなさでんせつ)] 昔、応天門の変で失脚した大納言伴善男(ともの よしお)の子孫で伴笹丸という者が奥州会津に住んでおりました。承平7年(937年)子供に恵まれなかった伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈った甲斐があり女児を得て、呉葉(くれは)と名付けました。

娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めて琴の指南を始めました。

ある日、紅葉の琴の音に足を止めた源経基(清和源氏の祖)の御台所(=奥方)は、紅葉を屋敷に召して腰元として召し抱えられた。紅葉の美しさは経基公の目にも止まりやがて局(つぼね)となった。

経基公の子を宿した紅葉は公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所を呪い殺そうと計りましたが比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにしました。

 天暦10年(956年)秋、紅葉は水無瀬の地に辿り着いた。やはり恋しいのは源経基公との都の暮らしである。経基に因んで生れた息子に経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けました。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っています。

京に上るための軍資金を集めようと、平将門の従類一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになった。噂は次第に広まり、時の冷泉帝は、平(たいらの)維茂(これもち)を召して信濃守に任じ紅葉征伐を命じました。

平維茂は紅葉の岩屋へ攻め寄せますが、紅葉は妖術を使い維茂軍を道に迷わせます。妖術を破るには神仏の力にすがるほか無いと別所温泉の北向き観音に17日間籠もり、満願の日についに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の宝剣を授かる。

 今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられた。

案和2年(969年)10月25日、紅葉33歳と伝えられる。息子の経若丸は自害する。

 人々はこれより水無瀬の里を、鬼のいない里=鬼無里(きなさ)と言うようになった、という有名な伝説です。

これを題材に多くの古典芸術、即ち、神楽『紅葉狩』、能『紅葉狩』、歌舞伎『紅葉狩』等々が成立致しました。この『鬼無里の道』もこれを引用しています。 なお、画面の浮世絵は幕末・明治期に活躍した揚州周延(ようしゅう ちかのぶ)[天保9年〜大正元年(1838〜1912)]です。当時、月岡芳年、小林清親に続く人気浮世絵師でした。