今回は先週の続きで、しまこだチャンネルのビデオの批判なのですが、届いた本を見ると、そこには「図版」の無い注釈書があるばかりだったので、驚愕しました。(既出)
講演会をやってそのビデオを公開し、2分冊の紙の本を発行して、一冊目は売り切れ、二冊目は講演のときに「みなさんの手元に配布した資料」に示した本は現行本ですので買ってくださいと吹聴し、それをこのビデオを見て乗せられた私は無駄に時間を費やしたことになります。
まさに、「ダマされたぁ、あいつが侵入者だ、殺せ殺せ殺してしまえ!」と叫ぶエルマーの世界の獣達のようなものです。
私には「版図がようひつだ!、ようひつだ!おっと間違い、図版が必要だ!」と叫ぶ権利があることがお解りいただけると思います。
この木っ端役人の愚行、いや、暴挙は、インターネットと学際(がくさい)を愚弄する行為だと言わざるを得ません。
無論、図版をコーパスとして県のページに公開するか、一冊目を再販すればすべては「不手際だった」で済まされるのですが、そうならなければ、この橋本剛氏の行為は「赤詐欺(あかさぎ、白鷺に対比して)」呼ばれることになるでしょう。(たぶん、やらないだろうけど)
まあ、気を取り直してビデオの続きを解説しましょう。
どこかで誰かに話したくなる島根の歴史 第1講 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4GYUnH6pvx0
◆正倉の分布(47m29s)
・正倉は15個記述されている
→ 意宇郡 1山国郷 正東 32里23歩
2舎人郷 正東 26里
3山代郷 西北 3里120歩
4拝志郷 正西 21里21歩
5賀茂神戸 東南 34里
→ 島根郡 6手染郷 正東 10里264歩
→ 出雲郡 7漆治郷 正東 270歩
8美談郷 正北 9里240歩
→ 飯石郡 9三屋郷 東北 24里
10須佐郷 正西 19里
11来島郷 正南 41里
→ 仁多郡 12三沢郷 正南 25里
13横田郷 東南 21里
14通道 28里
→ 大原郡 15屋代郷 正北 10里116歩
橋本氏は、方角は街道に沿ってという意味だと言っています。
● 私は烽(とぶひ)と正方位だと考えています。
● 物部氏は軍事だけでなく、全てのロジスティクスを掌握しているのです。
◆正倉が記された風土記(48m12s)
・現存するほかの風土記(常陸・播磨・肥前・豊後)に正倉はまったく登場しない。
・唯一、「陸奥国風土記」の逸文にみえる。
八槻郷と名くる所以は(中略)即ち正倉有り。
・「出雲の国風土記」と酷似。疑わしい史料
→ 本来正倉は風土記に記載されるべきものではない。
● これは完全に間違った考察です。
● 風土記編纂の700年前に、出雲の地はヤマト(家間処、直参の集う処)だったのです。
● つまり中央政府があったのが出雲だったのですが、ホツマツタヱの読者でさえそれを知らないのです。
● そしてオホナムチの移動した先は陸奥(むつ)地方(現青森県)なので、逸文に過ぎないのですが、陸奥国風土記に書かれていたというのが新しいヤマト(家間処)ということになります。
◆「出雲国風土記」に記載された理由は(49m50s)
・現存するほかの風土記(常陸・播磨・肥前・豊後 ←これ、全部、物部氏の拠点ですね)に正倉はまったく登場しない。
・唯一「陸奥国風土記」の逸文に見える
八槻郷と名くる所以は、(中略)即ち正倉有り。
→ 「出雲国風土記」と酷似。疑わしい史料
→ 本来正倉は風土記に記載されるべきものではない
出雲国風土記に記載された理由とは?
● それは出雲がかつてミヤコだったときの史料が残っていたからでは。
◆天平5年(733)の出雲国(50m27s)
・新羅との関係悪化により節度使が山陰道を管轄
・出雲国計会帳から、節度使と出雲の国の間の具体的な文書のやりとりが判明
・烽(とぶひ・のろし)の設置・兵士の勤務について指示
● これはまったくご高説の通りかと思います。
◆節度使の職務(52m43s)
● これはどうも誤解があるようです。
● 節度使の問題でも、船で移動するとしても、港は厄介な問題を持ってくることになるかも。
● 彼らは正方位を知っていたのか。
● 地図(海図)を持っていたのでしょうか?
◆軍事体制下である風土記の時代(55m12s)
・軍事体制下であることを念頭に風土記を読む必要がある。
● 物部氏は弥生時代から続いているんですね。
◆正倉が存在しない郡(55m50s)
◆風土記の編纂方法(57m52s)
● 神門郡の正倉跡と思われる遺跡は年代測定はされているのでしょうか?
これが700年遡った遺跡であれば、オホナムチのミヤコの線がくっきりとうかびあがるのです。
また、律令時代をわずかでも遡る遺跡であるなら、この右側の表はなりたたないことになるのですから、正倉跡の年代測定は重要です。
● 基本的に、この地がオホナムチのミヤコであった場合、正倉のコンテンツは一切合切持って、津軽に移住した証拠になるのです。
● 物部氏が移住した場所は、五所川原付近と考えられ、ここに鰐という地名が残っているので、鰐船(わにふね)の駅であったと考えられます。
● こんなぐあいで、ホツマを史料とすると(読むのはむずかしいけど)いろいろなことが見えてきますね。
神門郡域の三田谷I遺跡(出雲市上塩冶町)に関して、発掘調査報告書をみると、こんなことが書かれています。
古いものは密集している傾向があり、新しいものほど間隔をとって配置されているようです。
火災で倉庫のコンテンツが失われないようにする工夫でしょうか。
これは掘立柱建物群、複数の時代にわたっていますね。
こんな状態で、どうやったらすっきりした解説ができるのでしょうか?
盾縫郡(たてぬいぐん)・秋鹿郡(あいかぐん)、実は島根郡(しまねぐん)の西側も、現代に到るまで、陸の孤島と呼ばれるほどの過疎地になっているのです。
ここにはオホナムチの直系の物部氏が住んでいたのですが、ほとんど(タケミナカタの一門は除く)津軽に行ってしまったのです。
特に、この島根郡の左の端に島根原発が立地しているのは、こんな辺鄙(へんぴ)なところ、原発の立地に最適じゃないか!というわけなのです。
いいかげん、無理な説につきあうのに疲れてきたので、もう止めます。
次回はまたホツマツタヱ本文の解説に戻りたいと思います。
さて、ホツマツタヱに関するご意見ご要望、いちゃもん、文句、NGのあるかたは掲示板のほうに書いていただければ、うちのヱが対応します。
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