シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その391〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

 アンドロゴス生涯学習研究所

   生涯学習はじめませんか


今回は、神話ホツマを政治利用するという試みに使うという観点から、神谷宗幣氏、いときょう両氏の展開した、「縄文ホツマツタヱの旅」というyoutube番組を俎上にあげ、今日はその16回目を批判的に見てみましょう。(このビデオは5年前のものです)
批判的に見る、といっても、私は神話も大好きで、この両氏に敵対しているわけではないので、誤解のないように願いたいと思います。

神谷宗幣氏と、いときょう氏のトークショー
文字起こしではなく、要点をメモしただけですので、詳しく見たい方は下のリンクからどうぞ。

縄文ホツマツタヱの旅 第16回
https://www.youtube.com/watch?v=GlPm91w4nSc&list=PL6mu43UnNThDc4VEosKvKotu3XFXaOZD9&index=16
三種の神器、ミクサタカラ


神谷;前回、出雲の国譲りの話を聞いたんですけど、やはり古事記と非常に類似していて、ただ、意外で、面白いなと思ったのは、国譲りをしたあとの、オオクニヌシノミコトが岩木山神社というところに行って、残りの世数をされたという、これはまったく、はじめて聞くお話だったので、行った事無いんで、一度、ぜひ行きたいな、と思っています。
神谷;今日はまた、テーマが変わって、これは、ミクサタカラ、これは漢字で書くと、三種の神器になる、ということで、今日は、そちらのお話を聞いて行きたいと思います。
はい、よろしくお願いします、今日は十一アヤ、ということで、「ミクサユズリミウケノアヤ」というのがタイトルです。
ホツマんじ書いてあるアヤの名前ですね。
そうして、東北に多賀城という、
神谷;仙台の、
ありますね、多賀城といいますのは、昔はタガノコフ、多賀の国府、と書いてタガノコウ、今でも、多賀のコウっていう言葉が多賀城にはあるんです。
この、多賀城の話って、どうしても、坂上田村麻呂という人が、いわゆる、東北の蝦夷(えみし)を倒すために築いた拠点だといわれていますが、元々は、もっと古くから、そこに、タガノコウという場所があったのです。
で、タガノコウを造った方が、誰かというと、アマテラスオオミカミのご子息、ヲシホミミという方がいらっしゃる、ヲシホミミという方は、アマテラスオオミカミという方は、古事記、日本書紀では、女性にされてしまったために、あまりはっきりされてないと思うんですね。
この方はセオリツヒメとアマテラスオオミカミとの間に生まれた、ご長男ですね。
神谷;長男、はい。
で、今、伊勢神宮の外宮に行くとですね、忍穂井(おしほい)の井戸というのがあるんです。
外宮のいわゆる、ちょっと奥の方に、山の方に忍穂井の井戸というのがありまして、ここで、ヲシホミミという方は生まれたわけです。
ですから、ヲシホミミの「ミミ」というのは、井戸のそば、という意味になるんですね。
で、この方は生まれつき、体が弱くて、とても心配されていたわけですけども、自分のお祖父様、アマテラスオオミカミのお母様はイザナミといいましたね、で、イザナミの音尾様が伊勢神宮の外宮にいらっしゃいます、豊受の神様、トヨケさんと、云ったわけです。
で、トヨケさんは今の多賀城の近くを拠点として、立派な政治を行ってた人なんですね。
ヲシホミミは、その曾祖父さんなんですね、方を非常に尊敬していまして、で、今の多賀大社、琵琶湖にある多賀大社にあったミヤコを多賀の、東北に移したいと、おっしゃったんです。
自分の曾祖父さんの尊敬するところにミヤコを移したいとおっしゃった。
で、それが今の多賀城になっている。
● あいにくと、私はこの説には賛同していません、いろいろ調べましたが、ホツマと多賀城を結ぶ史料は見い出せませんでした。

神谷;じゃ、元々、多賀城っていうのは、違う名前で在って、それの曾孫のオシホミミが、多賀大社を移した。
多賀のミヤを移したので、多賀城という名になったのです。
● もはや、なに史料を提示していただけないと、信じる気きにはなれません。
● これは松本善之助一門の全員に言えることですが、大きな誤謬があると認識しております。

神谷;って云うことが書かれているんですか!? なるほど、僕、逆かと思ってました。
神谷;あ、じゃあ、多賀城のほうからもってきた、と思ってました。
はい、逆ですね。
で、多賀に、ミヤでヲシホミミがお過ごしになって、いわゆる、ミヤコを多賀城に移した、と云うことなんですね。
そういうわけで、このヲシホミミさんは体が弱かったのです。
で、多賀城にミヤコを写す、ということになって、アマテラスオオミカミにお仕えしていた、アマノコヤネという人がヲシホミミに、いわゆる、三種の神器をお渡しする、と云うことがあったわけですね。
神谷;左大臣ですね、はいはい。
で、このときに、途中にいわゆる、勿来の浜っておうのがあるんですね、勿来って、福島のですね。
そこいらあたりに、香取の神様、フツヌシが待ってましてね、アマノコヤネという、立派なひとが来るので、

● 多賀城と勿来の間は直線距離で150kmを大きく越えますので、単騎で走破するのは不可能で、この記述だけでも、ヲシホミミのミヤコ多賀城説が間違いと知れ、神話では時間と空間を短絡した読み方しかできないことがわかります。

ゆって、そこでお酒を飲んで、この浜は名前が無いんで、何か名前が欲しいな、と、言うと、アマノコヤネが、じゃ、ここはナコソにしたら良いんじゃないか、と言って、勿来の浜というようになったという記述も書いてあるんですけど。
まあ、そんなわけで、伊雑のミヤから、わざわざ行って、多賀城まで、三種の神器を持って行ったという、今日はちょっと、他では無い話で。
神谷;無いですねぇ、完全な新しい話です。
で、まず、こういうふうに書いて有るんですね、八咫の鏡は、左大臣に預けなさい、と。
神谷;うむ・・
左の臣に預けろ、と、ですから、後に、左大臣は、鏡を持つ大臣になるのですね。
剣は、じゃあ、どうするか、剣は右の臣に預けろ、と、右大臣です。
神谷;右大臣、あー、なるほどなるほど。
というようなことがここに書いてありまして、お前さんは、ヲシホミミは、トの教えというのを大事にすべきだ、と云うことで、勾玉(まがたま)を授かる、と云うようなことで、ここで、いわゆる、ミクサタカラが譲られたということが書いてあるんですね。
そして、ここに、フツヌシと、タケミカツチ、カトリの神とカシマの神がお仕えする、同時に、ミヤコユズリ、国譲りをしたオホナムチ、オオクニヌシもそこで、いっしょに、政治の補佐をする、というような体制ができたのですね。
神谷;へえー、あ、なるほどなるほど、東北に、いっとき日本の中心が、持って行かれた、ということですね。
で、最後に、ここに書いてあるアヤでは、金華山の謂れが書いてあるんです。
金華山とはなにか、じつは、アマテラスオオミカミがお生まれになったのは、富士山の麓でございました。
で、アマテラスオオミカミは、太陽の化身で、あの、いわゆる、精霊として生まれてますんでね、常に光輝いていたんですね、その方が東北、多賀城に留学に行ったときに、カラスがこれにふさわしいものを、木にかざろうとして、あの辺一帯はですね、砂金の採れる有名なところなのです。
そこに、木に全部、アマテラスオオミカミのために金箔をかざった、と、それが金華山の謂れなのです。
神谷;ああ、ほおー、なるほどなるほど、カラスが。
カラス。
神谷;はいはいはい
ですから、ここにはこんな言葉があります、「ミヤモルカラス コガネハク ツイニキカヤモ コガネサク イサコウミコモ シカジカト ナガメタガワズ コガネサク ヒサミルヤマト タタエタマイキ」ゆうような表現でコガネ、金華山の謂れのことが書いてあります。
● 金華山はだいぶ時代がくだってからの話で、奈良の大仏を鋳造したときなので、当時、金不足で困っていたときに、東北(ただし、金華山ではなく)大量の金鉱が発見されたので、当時の歌に、「スメラギノ ミヨサカエムト アズマナル ミチノクヤマニ コガネハナサク」ということで、スメラギの時代のことなのです。

神谷;あのー、今日はまあ、三種の神器の話ですけど、なんか、よく、天皇の正当性っていうのは、この三つの道具を、きちっと持っていないと、正当性が認められないと、云うのが南北朝時代とかで言われているんですけど、今日の話だと、左大臣と右大臣に鏡と剣を渡してたら、揃わないんじゃないか、って云うという想いが勝手にしたんですけど。
ええ、もうひとつですね、一番重要だったのは、巻物にして持っていた、いわゆるこの、ヲシデ文献なんですね、それを持っているのが正当性なんですよ。
神谷;へええー。
ですからね、平将門も実は、関東で兵を挙げるときに、ヲシデ文献を持ってたのですね。
神谷;へええー。そうなんですか。
これが、我こそはっと云って、持ってたんですよ。
神谷;え、では、どういう物なんですか、その文献っていうのは。
実はですね、今、ちょっと簡単にお話しますと、この、将門の持っていた文献は、平兵九郎という人がですね、藤原の藤太に討たれた時に、木をくりぬいて、隠しもっていたんです。
そういう話が後に伝わってます。
神谷;っていうことは、道具だけじゃなくて、文献も・・・
ですから、神武天皇のときも、ニギハヤヒっていう人とね、やるときに、我こそは、この文献を持っている、すると、ニギハヤヒも持っていたわけですよ。
というような話が。
神谷;あー、ありますね、なるほど、じゃあ、またそういう話が出てきた時に、まsた詳しくお聞かせいただきたいと思います。
神谷;でも、今日の話、すごいですね、多賀大社にあったおミヤを多賀城のほうへ持っていって、そこに政治の中心があった、と、云うことですね。
神谷;冒頭でありましたけど、どうしても、仙台の方っていうと、坂上田村麻呂、あれは8、九世紀ですか、ね、ぐらいからできたのかな、と思いきや、その前から。
神谷;でも、遺跡を調べると、けっこう、ほんとに古くからあったってのがわかってきたというのを、たしか、多賀城行ったときに見たと思うので、その話と整合しますね。
● これははっきりさせないとダメだと思いますが、多賀城では古い遺跡も発見されていますが、弥生時代はひどく貧弱で、住居遺跡などは発見されておらず、弥生時代のものは一部、水田跡が出たきりだとか。
● 教育委員会も、河川の氾濫がはげしく、地下深く埋まっているのだろう、と苦しい言い訳をするしかないのです。

神谷;はい、ありがとうございます、次回が、「幼児を護る人形」を聞けるということで、またこれも興味深い内容だと思いますんで、次回またよろしくお願いします。
はい。

ビデオのメモはここまでで、この後は私の普段の記事になります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この、11アヤの記述は、二十三鈴(オホナムチの世)から二十四鈴(ヲシホミミの世)への移り変わりの時のエピソードを綴ったものです。



多賀城や金華山の話は論外ですが、オホナムチがアマツヒツギを執っていたことはあまり知られていません。
そして、世の中を華やいだものにするため、オホナムチは、幾度もミヤコウツシをやっていたのです。
最初に即位したときのミヤコは、カナヤマヒコ(ソサノヲ)が開いた南宮大社だったと考えられます。
そして譲位したときはヒスミがミヤコだったと考えられますが、実は譲位ではなく、崩御による践祚だったのかもしれません。
ヲシホミミは体が弱かったのは幼い時だけで、長じてからは、性格が弱気なところはありましたが、健康を保っていたようです。
計算すると、オシホミミの在位期間は17年もあったのです。



南宮大社(なんぐうたいしゃ)
岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1
35.361004,136.525319

祭神
金山彦命

標高 48m
利用河川 揖斐川、牧田川、杭瀬川、相川

皇太子のことを東宮(とうぐう)と表現しますが、では、南宮は?
キミの父のことでしょうか?
いろいろ調べる必要がありますね。

そして、ナコソの浜で出会ったというフツヌシはソサノヲのことなのですから、知らぬがホトケですか、ね。

さいごに、ウタまで読んでくれてますが、この場所は奈良の天香久山であり、金華山などではありません。
ミヤの警護をしているカラス衆が、コカネハクというのを金箔を咥てきた、というのは漫画的で楽しいですね。
まあ、正しくは黄色の銅、つまり真鍮でしょうか。
ハクというのは佩刀(はいとう)、つまり吊り下げる形で剣をおびることですね。


これはその佩刀、その名も小烏丸(こがらすまる)


これが小烏丸、名刀ですね、材質はなんでしょうか?

次回はホツマツタヱ7アヤの解説の本文に戻ります。




さて、ホツマツタヱに関するご意見ご要望、いちゃもん、文句、NGのあるかたは掲示板のほうに書いていただければ、うちのヱが対応します。
http://hot-uma.bbs.fc2.com/