シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その116〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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このくらいの長さづつなら毎日アップしてもさほど苦にならないのですが、画像のオーサリングは手間がかかるので、あまり無理はできません。
この部分で、22アヤは終わりになります。

 4347 このときに としのりかみの 22 29 この時、トシノリ守の
 4348 まてにある おゝとしかみと 22 29 両側に居るオオトシ守と
 4349 はにやすめ おころもともに 22 29 ハニヤス姫、オコロの兄弟も共に、
 4350 ちかひして いさきよかれと 22 29 誓いをして、幸先が良かれという
 4351 かんほぎに ほぎのりなせる 22 30 神の祝詞で讃えて
 4352 かなぎゆひ たきヒもきよく 22 30 組んだ薪(たきぎ)によって焚く火も清く
 4353 みづきよく みかまときよく 22 30 水も清く、竈も清く
 4354 みなきよく ヒみつのみつの 22 30 お名前も清く、火、水、土の三っつの
 4355 たからおの すさみなけれハ 22 31 宝の繋がりの、もつれがなければ
 4356 いさきよく にあくるみけの 22 31 幸先も良く、煮炊きして出来た御飯を
 4357 ひもろげお さゝぐるすえも 22 31 神籬(ひもろぎ)に捧げる据膳(すえぜん、折敷、三宝の原型か?)も
 4358 きよらかに むすぶヒみつの 22 31 清められ、火、水、土の連なりによる


「かなぎゆひ」は細いホダ木を束ねたものと云われておりますが、それだけでは調理効果がわかりません。
現代でも、マニアックな薪の竈で飯を炊いている寿司屋や鰻屋は、細い薪(たきぎ)を組んで火を付け、炊き上がる直前にこの木組みを崩すと一気に燃え上がって火力が上昇し、飯粒(めしつぶ)が独立した状態で炊きあがるという特殊なテクノロジを用いていると聞いております。
なんでも、一升の米を7分で炊き上げるとか。




 4358 きよらかに むすぶヒみつの 22 31 火、水、土の連なりによる
 4359 きよはらひ よつきたからと 22 32 キ(=過ぎし)・ヨ(=世、いにしえの)祓いは、代継ぎの宝と
 4360 すさましく しつむちかひの 22 32 させるように、鎮む(=従わせる)誓いの
 4361 いさおしお ゆきすきはにの 22 32 (オキツヒコの)功績を、天神地祇と地の
 4362 をゝんかみ きこしめさるゝ 22 32 ヲヲン神(=神上がったアマテル)も、かつてお聞きになった
 4363 きよはらひ ヒみつおかみに 22 33 清めの祓いは、火、水、土を(それぞれの)神に、
 4364 つゝしみて きよめたまへと 22 33 謹んで、清め給えと
 4365 まうしてもふす       22 33 申し奉ります。


すさましくはこの時代にふさわしい表現と感じました。
「すさまじく、凄まじく」ではなさそうです。
ス(=する)・サマ(使役)・シ(強い命令)・ク(=そのように、させるように、それとも一連の助動詞のシク活用?平安時代じゃあるまいし、まさかね)
これが熟していればそれまでですが、熟していないなら、シツムも同様な形になりますね。
シ(=染む、第三者への命令)・ツム(詰む、強制)
そういえば、「詰め腹を切る」なんていう表現がありますね。


普通に考えればわかることですが、オキツヒコは、イサナギの子の世代ですから、ここで祝詞を奏上することは無いのでは?と思われます。
つまり、オキツヒコがかつて、アマテルの前で奏上した、縁(ゆかり)のある祝詞なのですよ、ということです。カシキノユフというのが二度出てくるのが良くわかりません、膳部だか炊部だかで家の基(もとい)である竈を讃えるという儀式をやったのだとは思いますが、なにか卑近な効果もありそうな気がします。
うちのヱなど、「わかんないよ、クシミカタマが自分で書いたことかもしれない」と手厳しいです。

はやいはなしが、これだけではまだ、「ワケイカツチ」には届かない感じがするのです。
でも、もう少し読み込めば解ると思います。

今回、これは!と思ったのは、「ユキスキハニノヲゝンカミ」というところです。
これ、「イカスリ」と併せて考えると、ニニキネの時代にはすでに、「天神地祇」の概念があった、つまり神道は完成していた!ということなのです。

私は、神道が完成したのは、もっとずっと後だと思っていたので、実にショッキングなことでした。
しかも、最初の頃はヤマサというのは都市に特化したものと思っていたのです。
しかし、それどころか山の奥まで関連しており、理解が進むに連れ、範囲の広さにあっとうされてしまいます。
これは、ヤマ・サ(=山との間、つまり狭山を倒置したような意味)ではないかと思うようになりました。
山奥と都市のインターフェイスのような、ね。

しかし、なんとも上手に、しかも誠実に、宗教を応用するものですね。



この、ヤマノミチノクという言葉は15アヤに出てきたものです。


 2716 うけすてめ ねのくにゝきて 15 43 ウケステメは、ネの国に来て
 2717 たまきねに よくつかふれハ 15 43 タマキネに良く仕えたので
 2718 みにこたえ こゝりのいもと 15 43 (タマキネは)感心して、ココリヒメの義妹として
 2719 むすはせて やまのみちのく 15 44 縁結びをし、ヤマ・ノ・ミチ・ノ・ク(=山の徳の奥義)を
 2720 さつけます よろこびかえる 15 44 授けました。(動物性でない生き方を知り)喜んで帰った
 2721 うけすてめ ころびんきみと 15 44 ウケステメは、コロビのキミと
 2722 ちなみあい くろそのつもる 15 44 愛し合い、クロソの港を守る
 2723 みこうみて にしのはゝかみ 15 45 御子を産んで、西の母上(ははかみ)と


西の母神といえば、西王母を連想しますが、崑崙山脈は遠く、簡単に行き来できるとはおもえないのですが、どうしたもんでしょうか。

列島内では肉食中心の縄文人さえ抱き込んでしまい、まあ、百歩譲って魚でしょうか、ね。
これだけ見ても、縄文人と弥生人は、平地と山奥で、上手に住み分けていた、というのが考えの浅い間違いであることが解ります。
弥生人は山の奥まで踏み込んでいるのです。
それどころか、縄文人と上手に交易もしているようで、事実というのは、盲信する人に残酷なものです。

もっとも、イサナギの時代にもイクサは多くかかえていたようです。
さて、どの程度の平和なのでしょうか、ね。

ヤマサについてはもうすこし展開したいと考えております。
また、明日も書こうと思っています。