うちのトの理解が浅いようなので、もうすこし解説を進めます。
まず、玉津島神社ですが、
目の前に、和歌浦干潟があり、風光明媚なところですね。
しかしながら、干潟の水路の通行は、鴨船といえども、水先案内を要すると思われ、外敵からは完全に護られていると言ってよいでしょう。
これをワカヒメがもらったのですね。
玉津島神社のサイト
http://tamatsushimajinja.jp/tamatsushima/index.html
この、稚日女尊(わかひるめのみこと)というのがワカヒメですね。
つまり、典型的な生活拠点としての「ミヤ」です。
アメ族のキミ・トミが、嫁にするのにふさわしい血筋をもっているので、それにふさわしい(格調ある)環境を用意したと考えられます。
次に日前神宮です。
これが紀の川から3km弱の、和歌山駅のそばにあります。
生活拠点としてのミヤの構成要素は満たしていると考えられますが、あいにくと、社伝には有効な神名はなく、鏡が御神体であると伝えられていますので、神上り以降の状態のみが保存されている、と判断しなければなりません。
しかも、タケヒトの時代(すなわち紀元前後)に、すでに古くからあり、よくわからないながらもヤシロが2つになったのでは?というのが窺われます。
少し前に、徐福渡来と世代が異なる話に触れましたが、お分かりいただけなかったと思います。
特にアクロバットでもウルトラCでもなく、クニトコタチ以降の記述に関し、列島内に拠点を求めず、大陸における皇統と考えれば良いのです。
大陸に於ける皇統、などと書くと、「ぉぃぉぃ、こいつヤベェよ、バリバリの右翼じゃん!」とか言われそうですが、私は、徐福の一団のなかに皇統に繋がる系図を見出しているだけで、中華人の列島支配権も、日本人の大陸支配権も認めてはいません。
そればかりか、武力による支配自体、許しがたいものだと思っているのです。
大中華には、戦国時代の前5世紀から前4世紀に成立したとされる「書経」に、はるか前に禹(う)という人が徴税のためにまとめた「禹貢(うこう)」という資料があります。
これは後の人(1177年?)が描いたものと云われ、禹の考えた図は残っていないそうです。
夏の始祖である禹は、中華全土を、冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州という9の州に分けたそうです。
また、騶衍(すうえん)という人の唱えた赤県神州(せきけんしんしゅう)という思想があります。
前2世紀成立の「史記」卷七十四の孟子荀卿列傳に、中国は、天下の1/81に過ぎない、という説があるそうです。
それによれば、禹貢図の周囲に8つの地域、すなわちそれぞれの9州があり、都合81の地域があるということなのです。
これを思わせる記述がホツマツタヱにあるのです。
2710 こゝりヒめ かたれることハ 15 41 ココリヒメが語ったことは、
2711 とこたちの ヤもおめくりて 15 42 トコタチの八方を巡り、
2712 にしのくに くろそのつみて 15 42 西の国(ネから見て)の、クロソの津(港)を経由したところの
2713 かにあたる なもアかかたの 15 42 右の臣に相当する、その名は赤県の
2714 とよくんぬ よゝヲさむれと 15 42 トヨクンヌです。代々治めたのですが、
「かにあたる」とあるので、gejirinなどは、ずっと以前から「カ」すなわち夏の国だと言っていました。
禹は夏の人なので、ひどく外してはいないようにも思えます。
また、その続きには、
2714 とよくんぬ よゝヲさむれと 15 42 トヨクンヌは、代々治めたのですが、
2715 としおへて みちつきぬるお 15 43 年月を経て、国の命運は尽きてしまいました。
2716 うけすてめ ねのくにゝきて 15 43 (その後)ウケステメはネの国に来て
2717 たまきねに よくつかふれハ 15 43 タマキネに良く仕えたので、
2718 みにこたえ こゝりのいもと 15 43 褒美として、ココリヒメの義妹として
2719 むすはせて やまのみちのく 15 44 縁組みし、山の奥義を
2720 さつけます よろこびかえる 15 44 授けたのです。 喜んで帰った
2721 うけすてめ ころびんきみと 15 44 ウケステメは、コロビンキミと
2722 ちなみあい くろそのつもる 15 44 睦み合って、クロソの津を守る
2723 みこうみて にしのはゝかみ 15 45 御子を産み、西の母上と呼ばれました。
これを前後関係から読み解けば、徐福来訪から100年程経ったあるとき、ウケステメという人がネのタマキネ(トヨケのイミナ)のもとに来た、ということになりましょうか。
それとも、ウケステメは徐福の一団で来訪したのでしょうか?
そうなると、本文に仕掛けがあるのでしょうか?
そもそも、ウケステメというのは誰?
ウ(=多い)・ケ(=食べ物、禄)・ステ(捨てる)・メ(=女)なのでしょうか?
イメージとしては、豊かな良い生活を捨てて遠くのキミに仕えに来た健気な女なのでしょうか?
2723 みこうみて にしのはゝかみ 15 45 御子を産んだ西の母上が
2724 またきたり ころやまもとハ 15 45 また来ました。 コロ山下は
2725 おろかにて しゝあぢたしみ 15 45 愚かで、肉の味を覚え
2726 はやかれし もゝやフもゝぞ 15 45 早枯れし、100歳や200歳(しか寿命が無い)
2727 たまゆらに チヨろあれとも 15 46 たまに1000歳や10000歳もあるが、
2728 ヒゝのしゝ しなきみいでゝ 15 46 これは毎日の肉食のせいです。 シナキミが
2729 チよみぐさ たづぬとなげく 15 46 千代見草を探していると、嘆いています。
同じ箇所で、人の寿命について言っていますので、まず、まちがいなく、系図の長さに注目せよ、と暗示しているようです。
パワースポット好きに代表されるような、現場百遍で、足にたよって情報を稼ぐ人に比べて、わたしのようなアームチェアデテクティブは、文中のサジェスチョンを見逃しません。
そうでなければ、情報は全く得られなくなってしまうからです。
逆に、より多くの論文等に触れ、他人の思考を自分のライブラリに取り込むようにするのです。
九州赤県のような表現でも、ホツマツタヱとの融合性はなかなか見い出せませんでした。
日本の陰陽(おんみょう)は中華に発しているとは云え、中央と四正(しせい)と四隅(しぐう)という関係はなぜか重なりませんでした。
今回、安居香山という人の「緯書における地理的世界観の考察:特に大九州説について」という論文に出会い、いろいろと考えた結果、だいぶ理解を深めました。
9マスの方形陣に当てはめてみてもしっくり来ないのです。
最初、こんなのを描いてみました。
でも、方角も合っていないし、世界の規模はもっと大きそうで、さらに調べました。
良くないねェ、形が異なるのかも・・・
安居香山の論文の図で一歩前進です。
この形は九曜紋(くようもん)の意匠と同じ構造ですね。
九曜紋は天体の運行を表しているそうです。
こうすると、九曜紋はコンテンツとは無関係に8+1を表しているのでしょう。
陰陽(おんみょう)の分野ではこの概念は、八角円につながります。
地図的要素からダイナミックに変化する九星の動きで方位の良し悪しを判断するようです。(実は現代でも)
十二支との組み合わせで、時間的要素を判断する哲学ですね。
さらに、四神獣と組み合わせて宗教化したり、時代・地域によってどの説を取り入れたかはそこそこ、判断できそうです。
四神獣は、月の位相である28宿を4つに分け、7宿づつ守護するという宗教的概念で、三角縁神獣鏡はホツマツタヱの文化圏ではないと思われます。
飛鳥時代の天皇陵はしばしばこの八角円の意匠を持っていることを見逃してはなりません。
ホツマツタヱには、オオタタネコの頃でさえ、古墳時代の半ばまで、八角円の概念は含まれていないようにみえます。
これは方位の場合で、ホツマツタヱにしばしば出てくるヤモ(八方)という言葉ですね。
多数の学者が、実際の地名との関連付けをしていますが、統一見解はなさそうです。
これは大中華で、まじめに学術調査をすれば、さらに関連は深まるかもしれませんが、中華人自体は、現代の私同様、自分で世界を探検するより、伝聞を整理する分野に特化し、東西南北、全方向に対して「知識欲」しか無かった、つまり実踏派は元(げん)ぐらいしか居なかったのではないでしょうか。(歴史の浅いアメリカと比べてみてください)
さて、ウケステメにもどりましょう。
4849 まこがなす いとうけすてめ 24 22 私の義妹が作りました。 ここにいるウケステメです。
4850 あかがたに くろそのつみて 24 23 (ウケステメは)赤県のクロソの津を見て
4851 うむみこお ころびつくにの 24 23 産む御子をコロビの国の
4852 きみとなす くろそのつめる 24 23 キミにしました。クロソの津に詰める
4853 きみのはゝ けわしきみねの 24 23 キミの母は険しい山を
4854 こすときに みねこしつくり 24 24 越すときに、峰輿を作って
4855 こおそだつ いまこゝにきて 24 24 王子を育てました。そのウケステメが、いまここにきて
4856 まみゑなす みまこよろこび 24 24 お目にかかっているのです。御孫(ニニキネ)はよろこんで、
4857 くにハこし やまハみねこし 24 24 「国は越、山は峰輿」と讃えました。
4858 そのかえに ミチみのもゝお 24 25 褒美として、ミチ・ミノ(=道・美濃、美濃の国)モモ(=全てを)
4859 たまわれバ はなみのもゝハ 24 25 頂いたので、ハナ・ミ(=褒美の果実)・の・モモは(=多いのは)
4860 まれなりと くにつとになす 24 25 なんと有り難いことでしょうかと、クニの土産話になりました。
徐福が漢字以前の文字しか持たなければ、越(こし)が越人(えつじん)との関連を求めるのは難しいかもしれません。
まあ、いずれにしても、徐福の一団、あるいはその子孫は美濃から中山道を開発することになるのでしょう。
1795 アおはかり さけてかんとお 10 18 野次馬の詮議をさけて喪屋を
1796 さらんとす むかしなかやま 10 18 離れようとしました。 昔、中山道を
1797 みちひらく かなやまヒこの 10 18 拓いた、金山彦の
1798 まごむすめ したてるおくら 10 19 孫娘であるシタテルオクラ姫が
カナヤマヒコが徐福だというのはかなり強力な線です。
ただ、ムカシナカヤマミチヒラクというのは、単に、中山道沿線の通商を開いただけかもしれません。
この部分は、「〜その23〜」でお話した、若者の相聞歌(そうもんか)の話なので、まだ読んでない人はぜひ、読んでいただきたいと思います。